道路掃除夫ベッポ〜「モモ」を読みました。(3)

                 ミヒャエル・エンデ 作 大島かおり 訳   岩波書店


 聴く才能のある女の子、モモには二人親友がいる。

 まずは、道路掃除夫ベッポ
 無口なおじいさんである。
 虫は「モモ」にでてくるキャラクターで、一番自分に近いような気がする。親近感を覚える。それはこんなところである。

 道路掃除夫ベッポは頭がすこしおかしいんじゃないかと考えている人がおおぜいいるのですが、それというのも、彼はなにかきかれたとしても、ただニコニコと笑うばかりで返事をしないからなのです。彼は質問をじっくりと考えるのです。そしてこたえるまでもないと思うとだまっています。でもこたえが必要なときには、どう答えるべきか、時間をかけてじっくり考えます。そしてたいていは2時間も、時にはまる一日考えてから、やおら返事をします。でも、そのときもちろんあいては自分がなにを聞いたか忘れてしまっていますから、ベッポのことばに首をかしげて、おかしなやつだとおもってしまうのです。

 うんうん。すぐには答えは浮かばないのだが、後から(ああ答えればよかった)なんて思う。ベッポと違って相手に言いはしないけど、なんかくやしい。特に若いころはそんなことばっかりだったと思う。
 なので、同じ質問を別の人から聞かれたりすると、返事は早い。リハーサル済みだからである。そして、同じ質問を受けることは非常に多い、結局人間の考えることって、似たり寄ったりなのだ。いつの時代でも、どこのどんな人でも、人間というのはそうそう変わるものではない。

 でも、時間を置くと、だいたいわざわざ言う事ないよ・・・と思うことばかりである。ほとんどの会話がそうだ。
 他の国はよくわからないが、日本人同士の会話って、切り紙細工のような気がすることがある。年齢や性別や立場によって、一定のスクリプトがある。非常に型にはまったものだ。女性は・・・男性は・・・ある年齢・年代は・・・〜出身の人は・・・といった概念が決まっており、それにそったスクリプトがある。自分はこれに対する例外だというような話もある(特に女性に多い。男性は例外だと思っていても言わないことが多い、あ、でもこれも切り紙かな?)・・・が!この例外話自体もスクリプトなのだ。この切り紙を見せ合っているだけなので、返事をする価値はほとんどないかもしれない。そのスクリプトをひととおり覚えれば「社交的」になれる。ただ、「コミュニケーション」に値するかどうかは疑問だが。社交辞令の会話にうんざりしたことはないだろうか。本当の会話というのは、ある程度親しくなってから、ひそやかに行われるものだと思う。切り紙細工の見せ合いっこしている間は、本当に親しくなんかない。中には、家族や長時間一緒にいる相手でも、切り紙細工の範疇から抜け出せないこともある。

 モモはベッポのことがよくわかっていて、ベッポが答えを出すまでの間辛抱強く待つ。2時間でも一日でも一週間でも。答えを言いはじめたときに、以前の質問の答えだということがわかっているのだ。
 
 ベッポは信じているのだ。嘘はよくないと。

 嘘はよくないと思っている人は多いと思うが、ベッポは「嘘」にわざと言った虚偽のみならず、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたことも含む。
 確かに、すぐに答えるためによく確認しないで口にすることは本当に多い。
 しかし、たいていはそんなにすぐに答えなくても良い。すぐに答えて頭が良いようにみせたいという虚栄心からつい口にしてしまうのだ。
 
 日本の政治家のように、特に発言に関して慎重になるべき職業であるにもかかわらず、失言が多いのは大嘘つきと呼んでもさしつかえないように思う。

 間違ったことを言うまいと全力をつくすのは誠実さの表れだと思うがどうだろうか。


 道路掃除の仕事も、彼はゆっくりと、しかし、着実にする。


 ひとあし進んでは、ひと息、もう一足すすむとまた一息。

一歩ずつ、一歩ずつ。

 どんなに長い道路を担当したときもそれは変わらない。

 担当になった最初は不安に思う。こんな長い道路今日中に終わるだろうか。

しかし、掃除をはじめたら、次の一歩の事しか考えない。

一歩進み、ひと息つく。

それを繰り返していくと、楽しくなる。楽しくなると仕事がはかどる。

いつのまにやら、最後まで終わっている。

 逆はこんなパターンだ。

 早く片付けようとしてほうきをさっさと動かす。さっさとさっさと進む。

 しかし、あせればあせるほど、進みが遅くそして道路は長く感じる。

 最後は疲れ果てるが、まだ、終わってない・・・。


 どんな仕事にも応用できる黄金のひと言ではないだろうか。さらにいえば、仕事にかぎられない。

「次の一歩についてだけ、考える」