大人になった子ども〜「子どもについて」を読みました。
「ハーリール・ジブラーン詩集」より 神谷美恵子 角川文庫
カーリール・ジブラーンの詩に出会ったのは、この詩が最初である。
アラビア語読みだとハーリールのようだが、とあるハウツー物の引用(著書はアメリカ人)で会い、英語読みのカーリールで覚えたので、そう呼ばせていただくことにする。
虫はあまり、詩を読まない。
どちらかといえば、小説、しかも短編より長編を好む。エッセイやハウツー物を読んでいる。
しかし!
しかし、カーリール・ジブラーンの詩は、長編5冊分ぐらいの価値はある。
最も尊敬する。このレバノン生まれの詩人を。
シェイクスピアやロングフェロー、ワーズワースよりいいと思う。欧米では広く知られている。
さて、いままで、子育てや教育に関する本を散々読んだが、この詩こそそれらの本ひっくるめたぐらいの価値があると思う。
ケストナーが、「飛ぶ教室」で大人になると皆忘れてしまうが、子どもの涙は大人の涙と同じだけの価値があるというようなことを書いている。
だから虫は大人になっても、子どもだったときの気持ちを決して忘れないことにしようと決心し(そのときはたしか小学生)、手前みそではあるが、それはおおむね守ってきたと思う。
大人の子どもに対する態度で腹が立つのは、恩着せがましい子どもの未経験・非力に乗じていいように利用したり適当にあしらったり、泥人形をこねるように相手を「教育」する姿勢である。
子どもも同じ人間・・・ただ世代が違うだけである。同じ人間としての基本的な尊敬の念を感じられない対応はよくないと思う。
子どもにはたくさん可能性があることは確かだが、それを伸ばすかどうかは本人次第。大人だって生きている限りはたくさん可能性があり、それを生かすかどうかは本人次第なのだ。子どもだから、容易に「変えよう」とするのはいかがなものか。大人だからって精神的に成長しないでいいものか。
「教育」を「人を変えようすること」とするアプローチにはそんな傲慢さを感じる。人は変えられるけど、変えることができるのは自分が変わりたいと思ったときだけだと思う。
一部抜粋だが、ほとんどそのままである。(何かに触れるだろうか・・・ま、個人的な日記ですから。)
子どもについて
あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない
彼らはあなたがたと共にあるが
あなたがたの所有物ではない。あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
あなたがたの考えを与えることはできない。
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
あなたがたは彼らの身体を宿すことはできるが、
彼らの魂を宿すことは出来ない。
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家を夢にさえ訪れることはできないから
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
あなたがたは弓のようなもの
その弓からあなたがたの子供たちは
生きた矢のように射られて 前へ放たれる。
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が遠くとび行くように力をつくす。
射る者の手によって
身をしなわせられるのを喜びなさい
射る者は飛び行く矢を愛するのと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから。