「聴く」という才能〜「モモ」を読みました。(2)

          ミヒャエル・エンデ 作 大島かおり 訳   岩波書店


 大きな男物のブカブカ上着を着て、(袖は折って)つぎはぎのスカートをはき、はだしで歩く女の子、モモ。

 年は10〜12歳ぐらい。本人に年を聞くと、生まれた後のことしか覚えていないので、わからないという。・・・ま、確かに。

 円形劇場跡に住み始めたモモだが、近所の人も彼女に助けてもらうようになったことに気づく。

 彼女には、「聴く」才能があるのだ。

人の話を「聞く」のではない。ただただ、「聴く」のだ。

 「人間には、口は一つしかないが、耳は二つある」など、きくことの重要性を指摘する名言やことわざは数多い。 昔から、自分のことばかり話して、人の話をきかない人がたくさんいるからだ。人の話をきくふりさえしない人、きいているふりをしていても、次に自分がなんと言うか考えている人(従って、話がかみ合わなくなる)、別の事を考えている人などなど、たいていの人はそんな人に会ったことがあるはずだ。・・・ないという人はおそらく、「きいていない人」だろう。

 普通に「聞き上手」な人はいる。相手の話をきちんと受け止められる人は、それだけで、聞き上手である。

 しかし、モモの「聴く」才能はそれにとどまらない。どれほど、すごいかは実例をあげればわかる。

例1)

二人の男(左官屋と酒場のオヤジ)がケンカした。近所の人たちは「モモのところにいってごらん」と言って二人をよこした。ちなみに、このセリフはモモの近所の人にとって、困ったことがあるときの定番である。

二人はケンカの経緯をえんえんと話す。

モモはただそれをじっと聴いている。

すると、どうしたことか二人にケンカのそもそもの原因が見えてくるのだ。

「なんだ〜けんかのもとは切り抜きの絵一枚のためだったのか〜」

二人は笑い出し、抱き合う(あ、イタリアなので・・・)。

 モモにお礼を言って、一件落着。

例2)

 近所の子供達も、よく円形劇場跡に来て、遊ぶのだが、モモがいないとなんか面白くない。モモがいると、円形劇場跡を大きな船に見立てた、近未来の冒険スペクタクル巨編のできあがり!

 この時も、モモはただそこにいて聴いているだけである。


 ・・・言ってみると、モモは「言葉」だけをきくのではない(普通はこのレベル)。「言葉」の裏にひそむその人が本当に表現したいことをきく。その人の魂をきく。だから、その人自身も気付かなかった可能性、内に存在する才能が引き出されるのだ。全身全霊できく。だから「聞く」ではなく「聴く」をあてた。
 ただ相手の言うことを受け止めることが、相手の内なる何かを触発し、言わば、化学変化の触媒の役割を果たす。コミュニケーションの基礎であり、かつ完成形といえよう。なんとなく、educationの語源が「引き出す」であることを思い起させる。

 モモが聴くのは人の話ばかりではない。犬やネコや木々や風、この世にある森羅万象すべてが、それぞれの言葉でモモに話しかける。

 夜に、星をちりばめた空の荘厳な静けさを聴くと心にしみいる音楽が聴こえてくるのだ。

 モモは本当に才能ある、すばらしい女の子である。彼女のようになりたいものだ。なかなかできないが。

 ◇   ◇    ◇

 知り合いに、1人だけ「聴く」才能があると思われる人がいる。まだ若い男性なのだが、男性に人の話をきかない人がけっこう多いことを考えると、貴重な例外である。

 ちょっとした世間話の時に、息遣いの話になってそれに気付いた。人の息遣いを聞いている人がいるというのにも驚いたし、それを話題にされたので、かなり驚いた。といっても、そんなにヘンタイっぽい感じではなく、軽くだが。

 その後もそれとなく観察してみると、人の話を実に注意深く聞いている。独り言のように相手の話の要点を繰り返す癖があるが、より深く聞こうとする姿勢が感じられる。
 
 それに、他の人が聞き流すような小さい音にも反応を示す。感覚が鋭敏なのだろう。

 ごくわずかな音に反応を示しているいている様子を見ると、本当にこの人の「聴く」力があるなぁと思う。舌を巻く。

 話をきくときは相手を見るでもなく、ちょっと前かがみの姿勢だが、全身全霊で聞いているのが伝わってくる。相手が省略したことなどもあいづちのような感じで、補うので深い部分も聴いていることがわかる。

 この人とは、とある討論の会合で一緒になったことがある。彼がいる時は、鋭い火花が散るような良い話し合いになるのだが、用事などで不在の時は、何か気が抜けたような感じで面白くない。この時は気付かなかったが、後で思い返してみると、その違いが実は大きかったのだ・・・としみじみ思う。お味噌汁にたとえると、ダシが入っているかいないかの違いだろうか。同じように見えるがかなり違う。

 モモのなかでも、モモが帰ってきたとたんに空想ごっこが面白くなるというのがあったが、それとおなじようなことか。
 しかし、それに気付いた近所の人達は本当に偉いと思う。
 モモのような子がいるとしても、私たちはなかなか気付かない。一緒にいる時は楽しいし、そうでないときは楽しくないのだが、当人が目立たないので原因に気付きにくいのだ。この人といるとなんか楽しいと思えるような友達は、大切にして、何があっても放してはならない!本人も気付いてなかったりするのだ。

 特に目立つわけでも、面白いことを言うわけではないが、その場の雰囲気を作り出しているキーパーソンというのが必ずいる。それが、モモであり、彼であり・・・みなさんも知らない間に会っているかもしれない人である。

 彼にそんなことを言ったことはなく(話すにしても、どうも自然な流れでは話せない気がする)、おそらく本人は気付いていない。モモにも同じことが言えるが。

 本人はおそらく、いじられるキャラぐらいにしか思っていないだろう。しかし、みんなが彼に話しかけ、ふざけようとするのは、必ず聴いてもらえるからである。

 この人は本当に周囲の人達から、愛され、尊敬されていると思う。なぜそう思うかを言おう。
 彼の座っている様子や癖などを真似している人たちをたくさん見たからだ。この人は背が高いせいか姿勢があまりよろしくないのだが、同じ姿勢をとっている人が、同席している人のほとんどだったりする。
 人は無意識のうちに、関心を持ち、尊敬している人の真似をする。これを「同調」という。1人が腕を組んだ後、他の同席している人が腕を組んだ場合、その人が尊敬されている証拠である。
 これもまた、無意識のうちだと思うが、「聴いてもらえている」ということに関する感謝の気持ちが、そういった愛や尊敬を生んだのではなかろうか。人はきいているのが、本当かフリかを無意識のうちに相手から読み取っているものだからである。

 このように「聴く」力を備えた彼の趣味が音楽なのは、当たり前といえば、当たり前である。現代音楽や前衛音楽をも余裕で楽しめそうである。

 バンド活動をしている。その中で、彼の「聴く」力が、一役かっているのではないかとにらんでいる。メロディとリズムが、複雑な構造を呈した不思議な魅力ある音楽活動をしている。クラシックの話だが、以前、演奏する際も「聴く」というのは大切だとオーケストラの人に聞いたことがある。また料理に引き寄せて考えると、具材がよくても、そのうまみを引き出すダシがあってこそ料理はおいしい。そのダシの役をしているのではなかろうか。またそれでこそ、メインがひきたつというものである。

 「聴く」才能というのは、計る方法もなく、現代社会では軽視されがちである。しかし、目立たず、「聴く」ことで人と人を結び付けている彼のような人がいなかったら、世の中のコミュニケーションの半分ぐらいボロボロになってしまうだろう。世の中「話す」人は多いが「聞く」人は少ない。そして「聴く」人となると、ダイヤモンドの原石なみに貴重である。彼のような人の素晴らしさを讃えたい。虫も心から尊敬している。

 そして、たった一人で、既成の音楽を聴いていない時に、どんな音楽を聴いているのか、ちょっと聞いて見たい気がする。