メンズリブという生き方〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました。(5)

           スティーヴン・ビダルフ   菅 靖彦 訳    草思社


 さて、この本が提案する新しい男の生き方は7つのステップに分かれていて、まだ「父親との関係を修復する」と「セックスに神聖さを見出す」の二つしか終わっていない。なお最初のステップからふまなくてはならないものではなく、どれでも、「こういったところはあるなぁ」と思ったら、取り入れてみると人生変わるかもしれない。

 正直、一つずつ書いてくのも面倒なので、残りの5つを駆け足で紹介して終わりにする。興味を持たれたら、是非メンズリブ関連の文献をご覧になるとよいと思う。日本にもこういったグループがあるかどうかは知らないが、たぶんあるのだろう。参加してみても面白いかもしれない。


「パートナーと対等に向き合う」
 

 この要は「対等に」という点にある。

 つまり、結婚などで女性のパートナーを得たときに、決定権を全面的に妻に任せてしまう夫が多すぎる。もっときちんと自分の意見を言うべきである。つまり、男性はもうちょっと権利を主張していい。

 結婚すると道からそれてすべての決定権を女性にまかせる・・・という一部の男性が行っていることをしてはならない。結婚は思考を停止させるいいわけにならない。結婚しても、まっすぐ前を見てそのまま歩き続けなくてはならない。

 こうなるのは、男性の持つ女性観に問題がある。女性をとんでもない悪魔か聖女だと考え、自分の妻を聖女にしたてて、それ以外の女性を悪魔に割り当てて(自分を誘惑しようとしているなどと思って)しまう。誰もはっきりとは言わないが既婚男性からこういった女性観を感じることは多い。

 しかしながら、妻も1人の人間である。このごく当たり前の事実に驚く男性が多いという。

 だから彼女が正しいこともあれば、間違っていることもある。
 大切なのは、交渉から逃げ出さずに話し合うということだ。けんかは大きな学習と成長の機会になりうる。

 女性も内心では頼りがいのある夫を求めている。ある妻は夫がメンズリブのカウンセリングを受けた後、こう言った。「サムは以前より強くなり、自分のことを語り、どう感じているかをはっきり教えてくれるようになりました。」彼女はためらいがちに続けた。「ずっと夫にそのようにしてもらいたいと思っていたのですが、わたしの中に夫より優位に立ち彼を自分の思い通りにできるのを楽しんでいた部分があると思います。これ以上、そんなことをしなくてすむほど強くなりたいですね。」

 お互いに尊重しあいながら、言うべきことは言う。ただし、暴力に訴えたい気持ちを抑えられない場合は緊急のカウンセリングが必要である。

 また、長い結婚生活では性的に遠ざかったりすることもある。「長い暗い夜」というのはどの結婚生活でもあるようだ。この本では、あなたの結婚や幸せに味方してくれる同性の友人に助けを求めるようアドバイスされている。これは酒を飲んで愚痴を聞いてくれる友人ということではない。とりわけ女嫌いの発言をする酒場によくいるタイプは、既婚未婚にかかわらず、女性関係の失敗者と見ていい。
 これは「女性の愛なしでは生きていけない」という男性の誤った思い込みから生じるものだという。
 同性の友人に遊んでもらい、考えていることをすっかり吐き出したあと、また再出発をすればいい。


「子どもと積極的にかかわる」

 母親業も大切で大変な仕事だが、「父親業」の重要性は、今まで語られていなかったように思う。これも大切で重要な仕事だ。

 父親の影の薄い男の子は、攻撃的でだれかれかまわずケンカをふっかけるマッチョ・マニアになるか、自信のない「お母さんっ子」タイプになる。とりわけ年の離れた男性とのコミュニケーションをうまく持てなくなる。

 女の子にとっても父親との関係は重要だ。父親との関係に問題のあった女の子は、DVやアルコール依存症などの問題をかかえる(父親と同じタイプの)男性にひかれ、破滅的な関係を繰り返す傾向がある。

 母親は、特に子どもが小さいうちは、子供と一体性を持ってやさしく接するのを得意とするから、厳しいしつけは積極的に父親が受け持つことが好ましい。

 いずれにせよ、父親が自分の子どもと親密な接触をする・・・できれば一日数時間以上・・・ことは、子どもにとっては欠くべからざる事柄なのだ。

 子どもが建てたツミキの家を「津波だぞ〜」と壊してふざけあったり、レスリンごっこを通して、力の加減の方法を教えたり、といったことは父親にしかできないと思う。

 「父親のいないアメリカ」(デヴィッド・ブランケンホーン)という本によれば、アメリカでは子供達の約半数が父親のいない家庭で育っている。そして、父親の不存在が多くの社会問題を起こしている可能性があるという。

 その研究結果を紹介する。
 父親が家にいると自尊心が高くなる。学校でもうまくやり、長く学校にとどまり、資格を取得することが多く、職も得やすい。性的虐待を受けたり、法にふれる問題も起こしにくい。女の子は早いうちに性経験をしたり、10代での妊娠も少ない。

 父親のいない娘たちは、男性から「影響をうけやす」く、男性を喜ばせようとしがちである。父親がいないか不在がちな少年たちは、暴力的になりやすく、問題を起こしがちである。

 しかしながら、父親以外の男性も子育てに重要な役目を果たしうる。この本ではつりやクリケットのクラブに入って、、息子を連れ出しにいってくれる男の友人を持つことを勧めているが、日本にもそれに相当するものがあるに違いない。

 シングルマザーの母親に頼まれて、サポートグループの男性数人が息子を朝、起こしにいったことなどが笑えた。驚き、困惑しつつも息子は嬉しそうだったという。父親の代替でもいい。やはり必要なのだ。


「自分の仕事に愛着を持つ」

 男を語る上で仕事は欠かせない。男たちは仕事を愛し、いそしんできた。

 オーストラリアでは夜遅くまでガレージで車の修理や改造にいそしむ男性の姿をよく見るそうである。日本でも、職人さんたちの工芸にかける情熱や町工場で働いている姿には本当に感動する。

 問題はその仕事に愛着がもてるかどうかである。

 産業革命以降のオフイスワーク(ネクタイ・スーツが象徴)のほとんどが自分を殺して相手のいいなりになる、愛着の持ちにくい仕事になってしまったと思う。

 とりわけ、日本で盛んな利益優先、営業中心の企業文化は、上司の命令とあらばガケから飛び降りることも厭わない「ヘイタイ」をつくるにすぎず、しかも「使い捨て」である。(正社員以外はさらなる使い捨てである)

 こんな仕事にヘトヘトになり、朝9時から夜中の11時ぐらいまで拘束されては、人間らしい生活ができようはずもない。

 自分を生かす、愛着のある仕事をするというのは重要だ。農業や自分の店を持つといった自営業も一つの選択だ。

 また同じ仕事でも、他人を助けるという点に焦点を合わせると愛着が持てるようになる。例えば、受付や店員、バスやタクシーの運転手は、出会う人々に大きな影響力を持っている。機械的に作業をこなすのではなく、彼らとの触れ合いを関心を持って行えば、愛着が持てるようになる。

「同性の友人を持つ」
 
 残念なことだが、男に友達はいない・・・とある。周知の事実のようだ。

 男性同士は過剰なまでに「競争的」である。(だから他の男性がいないほうがくつろげる)

 例えば、作者がプールサイドで他の男性と会った場合はこんな感じである。
 まず襲われる危険がないかチェックする。次に自分より強そうか、いい服を着てるか、体格的に勝ってるかどうかをチェックする。もし女性と一緒なら彼女が実際には彼を好きでない兆候を探す・・・。駐車場が見えたら、乗ってきた車をチェックする。次に・・・といった具合である。

 いらない競争をやめて、支えあう兄弟として男性を見るようにすると大きな慰めが得られる。

メンズリブグループで、心の中をうちあけあうときの様子は感動的だ。

 とりわけ、年配の男性の参加は貴重だ。彼らの暖かいユーモアで救われる。

まずうまくいっていないことをしゃべり、他の男性はよくあるように、裁定や判断をするような言動をつつしんでひたすら相手の言うことを聞く。静かに、たんたんと話し込むにつれて、男たちは泣き始める。

 男たちの内部には長期間にわたってためこまれたプレッシャーがある。

泣くほうが、死ぬよりずっといい。

 男たちが感情を表現しないと妻たちは言うが、まず、なにより男同士で感情を表現したほうがいいという。男の感情は女とは異なる。しかし一旦感情表現をはじめれば、自己表現についての問題はなくなる。

 悲しみを表現できるようになるし、男同士で楽しむことも友情の理由である。活気と愛情にあふれた自由な楽しみは人生の貴重な贈り物だ。

 是非とも、同性の友人を持とう。

「野生のスピリットを解き放つ」

 率直に言って、ここはよくわからない。

 だが、はっきり言えば、宗教を持つという事だと思う。(ただしまともな宗教の話だ)

 ここではキリスト教と仏教とアボリジニが例に挙がっている。

 ま、スピリチュアルとかいう話になると、ニセ物が横行しているので、まゆにつばをつけたくなる気持ちはわかる。

 しかし、少年が大人の男になる通過儀礼は、どんな民族にも必ずあるように思う。現代では既成のものはないから、自分なりに作り出すことが必要になってくると思う。

 環境を変えたり、髪型を変えたりといったことだ。

 作者は、ニューギニアに行って住み、石器時代を体験するツアーに参加することをこれにした。思いがけない出会いや友人が、自分を変えてくれたという。

 若者に彼ら自身が聖なる存在であることを教え、大人の精神世界に導いてくれるものなのだ。

 ただし、イニシエーションは、少年を傷つけるものであってはならない。その点、大学で新入生に行われるものは失格なものもある。年長の男性の監督がいる。

 今日でもイニシエーションの代替になるものはたくさんある。スポーツや、旅行、あるいは単に集まって楽しむことなどである。

 また大人になってからも試練はある。「灰の時代」と作者は呼ぶ。どんな男も40歳前に成熟することはなく、灰の時代を過ぎてはじめて成熟する。

 考えてみると「男らしさ」というのは内なる野生とつねにつながっていることといえるかもしれない。


 最後に、産業革命などの西欧文明が私たちに与えた影響は非常に大きい。社会のあり方と個人のあり方を大きく変えてしまったが、そこには良いとばかりいえない部分がある。何事もそうだが。

 これからの生き方を考え直す上で参考になる本だと思う。

 


 


 



 

 

 

男とセックス〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました(4)

                     スティーヴ・ビダルフ  菅 靖彦 訳   草思社

【はじめに】
 更新が遅れてしまった・・・。この題名を見てもらうとわかるように、かなりタブーな話題な上に、考え始めるといろいろ浮かんで筆が止まってしまうためである。ウーマンズリブもそうだが、メンズリブも、現実社会の思想の偏りを排除するという思考実験のようなところがある。こういった切り口で性について考えたことは今までなかったので、非常に新鮮である。考えるきっかけを与えてくれたことが、この本を読んでよかったと思う点である。
 というわけで、取り急ぎのメモだと思って見て欲しい。いずれ、これを発展させてみようかと思う。

【本論・セックスの社会における位置づけ】
 まず、大前提から。一般的に男性は女性に比べて性欲が強い。これを否定する人もいないと思うので、大上段で書いておく。

 この男性の性欲が、どのくらいの規模かはわからないが相当な利益があると思われる売春産業(小説やマンガや写真、ビデオ、映画なども含む)を支えている。ちょっと前に、(無料、画像)とだけ入れてぐぐってみたら、ほとんど無料で見られるエロ画像だったのが笑えた。自然の写真画像が欲しかったのでぐぐりなおしたが。ネット上でも本屋でも、呼び込みが立っている街の一角でも、ものすごい規模で栄えていることはわかる。

 ところで、父親や身近な男性から、男性の振舞い方をあまり学べない男の子はテレビや映画などを通じて、男のあり方を学ぶ。その中にジョン・ウェイン高倉健など、「感情を表さない」ことが男性の理想像としてあり、多くの男性は感情を表すことをおそれ、人前では抑圧している。「男のくせに泣くんじゃない」というのはあまりにも典型的である。泣くことは精神的健康に良いとおもうのだが。

 その中でセックスに関する分野は唯一といっていいぐらい、男性が感じていることを表現しても非難されない場である。性欲がなくなると人類は滅びるからだろうか。(そして逆に通常は感じていることを自由に表現できる女性が性欲を表現すると「淫乱」などと非難される)誰もはっきりとは言わないが、そういう不文律があると思うのは空気の読みすぎだろうか。この逆転現象は面白い。

 セックスや性欲を卑しいものとするのが社会の位置付けである。それゆえ、性欲を持つ男性は無意識のうちに自分を卑しいものと考えてしまう。これは男性のほとんどが共有する劣等感のようなものだと思う。
 しかし、セックスや性欲は本来は決して悪いことではない。種の存続に欠くことができないものだ。
 この劣等感のバリエーションで、性欲を刺激する女性の存在を憎む女性嫌悪ミソジニー)がある。ミソジニーの歴史は長く、西欧の中世の魔女狩りの背景にこれがあったという説も見た事がある。これは、もちろん、女性ではなくて、自らの性欲とその制御が難しいことを嫌っているのだろう。
 
 性的魅力のある女性にたいする嫌悪というのは、かなり一般的な現象である。男性は「興奮させられている」と考えて、その女性が男性をあやつる力を持っていると考える。
 それは全く違う。いかなる女性も男性をあやつることはできない。男性自身が特別な目でその女性を見ることで、自分が興奮させているのだ。選択権と責任は男性自身にある。
 あけすけに言えば、「ペニスにふりまわされるな」ということだとビダルフ氏は言う。

 それで、売春産業やこういった価値観が産み出すのは「卑劣漢」である。(以下は再引用で、原典は『身障者と男性』というジェイ・ノア氏の本である。なおノア氏は身体にしょうがいがあるとのことだ。短めに編集してある)

 「卑劣漢」は自尊心が低く、他人と親密な友情を育めないと思っている。親密な交際を通して得られる幸せをあきらめた彼は、他人(=女性)を搾取する対象とみなす。
 これは支配することで自分自身を証明しようとする冷酷な試みである。
 その時、卑劣漢は、のぞき趣味の人間・ポルノ愛好家・強姦魔・連続殺人犯・子どもに性的ないたづらをする者になる。

 自信のない男性は、対等な人間としてアプローチし、拒まれる危険を冒す代わりに自分達の欲求を満たすため、腕力、卑劣さ、お金といった力に頼りたい誘惑に駆られる。女性はそのために大きな代価を払う。

 売春産業は男性の感情を貧しくする。多くの男性は人間関係の複雑さに対処するよりは「偽の愛」を買うことに心地よさを感じる。

 しかし、全ての男性は愛されることを必要としているのだ。あるがままで認められ、やさしく扱われ、日々の親しさを経験する必要がある。
 偽の愛は、本当の欲求を満たさず、虚しさがのこる。

【セックスを神聖さを見出す】

 「卑劣化」を促進する売春産業には、気をつけよう。

 セックスは身体や身体の一部だけでするものではなく、全人格的行為なのだ。スピリチュアルな融合体験でさある。

 男性で誤解している人が多いのが、「射精=クライマックス」と思っているが、実際は「射精≠クライマックス」だと氏はいう。

 男性のクライマックスは謎が多く、未だに解明されていない。が、両者は別モノだという。射精は何の感覚もなく行われる条件反射にすぎない可能性が高いらしい。

 何かの調査で、「性行為で女性は男性の何倍も感じている」といった結果があった。ライフハックだと思うが。男性と思われる羨ましそうなコメントがたくさんついていたと思う。だが、「クライマックス」に達していないのだから、当たり前だろう。性的な無感覚のままで、あがいているのだ。

外側の機械的な行動や行為にあまり力点を置かずに内部の感覚的、感情的な体験の質を重要視することだという。

ちょっと抽象的なのでわかりにくいかもしれない。著者は二つの引用を対比することで、なんとなくわからせてくれていると思う。ちょっと長いが、再引用する。

最初の引用はケン・フォレットの「飛行艇クリッパーの客」。この作品は知らないが、よくあるソフトポルノといった感じである。

 こんなはずじゃなかった、と彼女はかすかに思った。彼は彼女をやさしくベッドに押し倒し、弾みで彼女の帽子が脱げ落ちた。「いけないわ」と弱々しく彼女は抗議した。彼は彼女の唇に唇を重ね、そっとはさむようにしてもてあそんだ。彼の指がシルクのパンティーごしに・・・


 お気づきだろうか。

 全て動詞とそれを修飾する副詞である。つまり、行為と、それがどんな行為かということしか書いていないのだ。

 このてのやつはほんとうに多い。いわゆるロマンス小説なんかにも多い。

 実に外形的、機械的だ。

 だから飽きがくるのだろう。後はシチュエーションとか色々変えるだけだけど、本質的には大して違わない。

(文章でなくて、画の系統も同様だ)

 次の引用はこれだ。

 彼女はバーキンとともにいた。彼女は星々に逆らい、雪深いここに誕生したばかりだった。親や先祖と何の関係があっただろう?彼女は自分が新しく生まれ変わったことを知っていた。父も母もなく、祖先とのつながりもなかった。ただ彼女は彼女自身であり、純粋で銀色に輝いていた。バーキンとの一体性だけに属し、その一体性は深い音色をうって、彼女がかって存在したことのない宇宙の中心、真実の核心に響いた。

D・H・ロレンス恋する女たち」からの引用である。

内側から外側に向かい、真の体験から描かれている。こうしたことができるのは偉大な作家だけだ。


 セックスは、聖なる魔法の体験だ。

 だがそれに到達するためには、まず、自分自身を理解し、それから外に向かう。内なる成長が必要である。それには、思ったより時間がかかるかもしれない。

 内なる野生を解き放つ行為である。だから自然のリズムを取り入れることがカギだという。


 

 



 

 
 
 
 

父親との対決〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました(3)

              スティーヴ・ビダルフ  菅 靖彦 訳   草思社

ではどうしたらいいか。

 男性がこのように孤独を感じ、強迫的なまでに競争的であり、感情を表に表すことをおそれているのはなぜか。

 答えは簡単、どうしたらいいかわからないからだ。

 成熟した大人の男性は、自分の攻撃性や性欲をコントロールするすべを知っている。自然な自信をもち、女性や子どもや他の社会のメンバーと建設的なよい関係を築いている。「父親の権威」などというが、してはならないことを教えて必要な時に愛情を持って叱るのは人間社会に必要不可欠な営みである。

 大人の男性がどう振舞うか、それを少年たちは他の大人の男性たちから学ぶ。もし学ぶ機会がなかった場合、年だけは取るが、中身は男の子のままになってしまう。

 より原始的なスタイルの暮らし方を考えてみよう。明治以前の日本でもいいし、西欧の文明にまだ毒されていないアフリカなどの部族でもいい。部族や地方でそれぞれ習慣は異なるであろうが、男性が家から遠くに離れたところに長時間拘束されるということはないだろう。狩猟にでるといっても、毎日長時間行くわけではないし(シーズンがある)、狩猟のための準備作業、鉄砲や弓矢の手入れなども家でやるからだ。牧畜や農業だったら女性や他の家族が行くことも多いし、何と言ってもたいていは家の近くで行われる。男の子は、ある程度の年齢になると、父親や部族の他の男たちから、仕事の方法を習う。男たちのコミュニティに組み入れられる。そこでは毎日、何時間も他の大人の男たちの指導や触れ合いを受けることができる。その教育を受けて、はじめて一人前になれるのである。男の子を一人前に育てられるかには、その村や種族、社会共同体の存亡がかかっているのだ。なお、明治以前でも、武士は、現在のサラリーマンと似たようなものとしてとらえられているが、武家では一定年齢以上の男の子の教育は父親によって行われる風習であった。

 産業革命は、「男は外で働き、女は家を守る」という性的役割分担(ジェンダー)を生み出し、妻から夫を奪って、家に閉じ込めた。そして子供達から父親を奪った。男の子も母親が、母親だけが育てるようになった。男の子たちは産業革命により多くの父親が従うようになったライフスタイル・・・家から遠く離れたところに何時間も閉じ込められる・・・によって大人の男性たちから学ぶ機会を奪われてしまったのだ。産業革命にはこのような副産物もあったのだ!

 確かに、若い人はご存知ないと思うが、昭和20年ぐらいごろ、高度経済成長により、「男性が会社などのオフィスで働く」ことが一般的になったとき、サラリーマンやOLといった言葉が華やかに登場したころ、家庭における「父親の不在」や「父親の権威の失墜」が新聞などのマスコミでとりあげられていた。古い資料などを調べていただければわかると思う。
 今では「父親の権威の失墜」などを問題にするマスコミはどこにもいない。それが問題でなくなったのではなく、現在のマスコミの担い手も父親の実質的不在のなかで育ったため、それが問題になるとは夢にも思わないのだ。しかし、父親の指導や愛情や触れ合いを受けられなかったことが、現在も様々な問題を引き起こしていることは確かだと思う。お店などで列に割り込んだり、一般常識を持たない中年男性についてよくネットなどで見聞きするが、まさに「父親不在」が問題になった世代である。

 男性が家庭で伝統的に培ってきたコミュニケーションの流れは断絶してしまった。


 他の動物は、生まれればすぐに一人前になる。牛はすぐに自分の足で立つことができる。

 しかし、人間は他の人間による保護や教育があって初めて一人前になれる。

 とりわけ、男の子がティーンエイジャーぐらいになって、身体が大きくなり、内なる攻撃性や性欲に目覚めはじめると、その制御の方法を教える大人の男性が絶対必要である。

 少年たちが不良仲間に入り、大人から見ると奇異に映るファッション(長髪、茶髪、最近ではズボンのズリさげとか、入れ墨とか)に身をつつみ、犯罪や麻薬に手を出すのは、年上の男性の注意を引きたいからだ。彼らは心の奥底で父親を求めている。良い警官はそれがわかっているという。



 で、どうしたらいいか。

 まず、父親との対決である。自分の男性性を基礎づける存在、それが父親である。

 父親は、よかれあしかれ、自分の「男であること」を判定する基準となっている。人生のある段階で父親と腹を割った話し合いをすることが大切である。

 父親とそんな話し合いをしたことがないという人がほとんどだろう。父親を嫌っている?そうかもしれない。中には生まれてこのかた父親にあったことがないひともいるかもしれない。アルコール依存症だったり妻子を殴るような男かもしれない。そうだとしても生物学的父親は重要である。

 長距離電話で父親と話した若者の話をしよう。

「こんにちは、お父さん、僕だよ」
「う、うん・・・そうかお前か!お母さんを呼んでくるよ」
「いや、お母さんを呼ばなくていいよ。お父さんと話したいんだ・・・」
しばし沈黙・・・。
「どうしたんだ?金が欲しいのか?」
「いや、金なんかほしくないよ」
 それから若者は多少リハーサルをしたものの言いにくい話をはじめた。
「お父さんのことたくさん思い出したんだ。お父さんが僕にしてくれたことをね。僕を大学に入れ、支えるためにずっと働いてくれたでしょう。今、僕の人生は良くなりつつある。それもこれもお父さんが僕を独り立ちさせるために働いてくれたおかげなんだ。そのことを考えているうちに、『ありがとう』って言っていなかったことに気付いたんだ。」
電話線の向こうが沈黙したままだったので若者はつづけた。
「ありがとうってお父さんに言いたいんだ。・・・それに愛してるって」
「お前、酒をのんでるのか?」

この話をすると聴衆は笑うが、男たちは瞳を濡らし、輝かせながら笑う。

 
 そして、どんな父親でも、息子に愛され、慕われるのを心の底では待ち焦がれながら人生を送っているという。

 ある男は両親が離婚して以来、父親に会っていなかったが、母親は息子のためを思って父親に刃向かわせるようにしたため、父親に偏見を持つようになっていた。
 だが35歳になったとき、父親は実際はどんな人間だったのか疑問に思うようになった。
 そこで飛行機でシアトルに飛び、父の家を訪ねた。
 「父さんにひとつ、わかってもらいたいと思うことがあるんだ。もう母さんの父さんに対する見方をうけいれていないということをね。」
 父親は泣き崩れて言った。「これで死ねる」と。

 ただ、それは父親をなにがなんでも美化するものではない。ありのままの父親の姿を理解し、その関係を修復するものだ。
 腹の割った話をし、父親の経験を聞こう。あなたが思っているようなことではないかもしれない。
 生い立ちや所帯をもってからのこと、子どもに関する事を。

 そして、自分が父親で、話をできるぐらい息子が大きくなっていたら、息子とも腹を割った話し合いをすることをおすすめする。自分が親になって、はじめて親のことがわかる部分もあるという。

もし、父親が他界している場合はどうすればいいだろうか。父親をあらためて理解しなおすことが必要である。次のような方法がすすめられている。

  • 父がまだ生きているつもりで手紙を書く。
  • 父の人生で重要な役割を果たした場所を訪れる。
  • 父についてくわしく知っていそうな人物に話を聞く。
  • 父の夢をみようとする。
  • 父について男性のカウンセラーと話す。

同性の親との関係は本当に重要なんだなと思う。女の子にとって母親との関係も大変だが。

そういった、男性のつながりが断たれて育った以上、自分が自分の父親になってもう一度育てるしかない。父親との対決はその第一歩だと思う。

 他の方法については次回。



 

 

死ぬな!日本の男たち〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました(2)

           スティーヴ・ビダルフ  菅 靖彦 訳   草思社

 警視庁によると、2008年の日本の自殺者数は3万2249人という多さである。世界的にもロシアに次ぐ。うち男性は2万3478人にもなる。去年は、平均して毎月2千人近い男性が、人生に絶望して自殺をはかり、成功したことになる。悲しいことに自殺をするのは、男性が多い。

 男性は、一般的に女性と比べると不幸な人が多いのだと思う。

 女性と比べると比較的、お金を持っていたり、社会的地位の高い人が多い。もちろん、ない人もいるが。

 そういった外面的、物質的な成功はあっても、内面的な空虚をかかえ、空ろな感じを受ける男性をよく見かける。

 美術館やカルチャーセンターで見かけるのは、8割がた女性である。例えお金がなくとも、自分のしたいことをしている女性は幸せそうに見える。自分というものを持っているからである。

 男たちはもっと自分を見出し、自分自身の人生を歩む必要がある。自分の人生を生きてはじめて人は幸せになれるのだ。女も男も。

 

 ほとんどの男性は自分の人生を生きていない。ただ、見かけのとりつくろい方を覚えるだけだ。男たちの行動の大半はみかけをとりつくろい、身の保全をはかるために費やされる。

 というのがこの本の出だしだが、実際そう思う。

 ほとんどの男性は外面は取りつくろっているが、中身がない。感情を失いすぎで不気味だし、女性が自然な感情を表現すると、ま、たまに不自然なまでに感情的な人もいるが、「感情的」だといって非難する。抑圧のしすぎで感情が怖いのだ。何かにおびえ、人がどう思うかを異様に気にする(とりつくろうために)男たちをそこかしこでみかける。

 逆にいうと、「自分」がなく、内面的な充実がないからこそ、お金や社会的成功に依存するのかもしれない。去年のようにな不景気で、リーマン・ショックなどのためお金を失ってしまったときに何も残っていないことに気付いて死んでしまうのかもしれない。お金や社会的地位というつっかえ棒が必要だったのだ。

 
 男性自身もすこしずつ、気付いていると思う。とりわけ若い世代はそうだ。競走馬のように、お金や社会的成功や女性といったゴールを必死に追いかけるが、いつも何か虚しい感じがする。もっとなにかあるはずなのだが・・・、という感覚を覚えるがそれが何かわからない。

 お金や社会的地位や家族に恵まれていれば、幸せなはずという社会通念に支配され、幸せなふりをして過ごす。そういった見せかけが、ごくたまに破れるときがある。砂浜にたった一人でいるときや、家族の死にあったときなど。

 しかし見せかけをとりつくろうことに疲れ果てた男たちが、日々、死を選んでいるのだ。

 男たちは傷ついている。何かが狂っているのだ。それが、自分自身に向けられる時は自殺となり、他者に向かう場合は、手近な妻子やガールフレンドへの暴力や、子どもたちへの性的虐待、さらに見知らぬ人達への無差別殺人となる。こういった新聞をにぎわす事件のほとんどが男性によって行われている。

 たぶん、こういった状況を悪くしているのが、多くの「不幸」と思われる男性自身が、自分が不幸であることに気付いていないことだ。男性たちの病は、少しずつ彼ら自身をむしばみ、ある日突然自殺や暴力沙汰という形で一気に表面化する。うじうじ「相談」したり、感情を表すのは男らしくないというわけだ。

 男性優位社会ではあるが、男性も決して「勝ち組」ではない。彼らも社会の犠牲者である。

 だが男性自身が、彼らの「男らしさ」の思い込み(その中には女性が作ったものもある・・・というか、母親や妻・ガールフレンドの男性像ほど男性に影響を与えるものはないだろう)を再検討し、実際に男性が感じている悲しみや苦しみを克服すれば、幸福になるチャンスはある。

 そうでなければ、レミングのように死や破滅をめざす男性たちの仲間入りである。

フェミニズム運動で女性達は、女性の権利や人間としての尊厳を認めようとはしない外側の敵とぶつかった。

しかし、男性の敵は主として内面にいる。

  • 孤独
  • 強迫的な競争
  • 感情面での臆病さ

 これらを感じ続けることは、「男ならあたりまえ」ではない。

 もし、自分を変えようと思えば、これらを改善し、より幸せで自己肯定的で、自信を持ち、本当の男らしさを兼ね備えた人物になることができる。

 豊かな内面生活を持ち、かつよりよき結婚、仕事、気晴らし、友情をつちかうことは決して不可能ではない。それどころか、実際のお金持ちのほとんどが、幸福な結婚や私生活を持っていて、家庭を「犠牲」にすることは逆効果かもしれないのだ。たしかお金持ちに関する調査ではほとんどの金持ちが1回の幸せな結婚を全うしていた。

 要は逃げたり、自己破壊的になったり、周囲の人を傷つけず自分自身と向き合うことである。

 男性を「解放」する必要性についてはご納得いただけただろうか。

 虫は、この本を全ての男性に配ることで、自殺を防止するプロジェクトが可能だと思う。自殺に限らず、男性に多い性癖はギャンブル依存やアルコール依存など自己破滅的なものが多すぎるのではなかろうか。もっと自分を大切にしなくてはならない。

 具体的にどうすればいいかは次回。

 
 


 

   

メンズリブ入門〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました。(1)

           スティーヴ・ビダルフ     菅 靖彦 訳    草思社

 ウィメンズリブ、もしくはフェミニズムについては最近日本でも広く認知されてきている。上野千鶴子さんなどのご著書などを拝見すると、日本のフェミニズムは欧米のものとはちょっと違うような印象を受けるが、今回はそういう話ではないので置いておこう。

 この本は、メンズリブ運動に関する本である。メンズリブなるものがある事は知識としては知っていたが、実際にどういったものなのかはこの本を読むまではわからなかった。男性が自分自身についての理解を深める実によい本ではないかと思う。日本にいる男性全員にこの本を読んでほしいと思う。メンズリブに目覚める男性が増えれば増えるほど、本当に幸福な男性が増え、その結果この社会は住みよくなるのではないか。女性にとっても、男性からの抑圧が減り、建設的な男女関係が築けるチャンスが増え、よりよく生きることができる。

 だがこの本の内容について話す前提として、ウィメンズリブフェミニズム)について触れておいたほうがいいと思う。このテーマで本が書けるぐらいだが、さらっとまとめる。
 初期の女性解放運動と呼ばれていた頃のウィメンズリブは、選挙権の獲得を目的とした政治運動である。平塚らいてう、青踏社などである。この頃にも文化的側面はあったが、「男性のように働く」こと、さらにいえば男性のようになることを目的としていた部分が多かったと思う。なお、男性では未だにこの初期のフェミニズムの理解からすすんでいない人が多く、「男のようになってどうしようというんだ」などと未だに的外れな批判をよせてくる。
 さて、選挙権は女性に与えられた。日本は比較的早く、もう60年以上も前のことである。
 しかし、「女性は男性より劣っている」と信じている女性は多く、権利が与えられても行使しようとはしない。
 これは、文化の中の女性の理解に男性中心的なかたよりがあるためではないかと考える人がでてきた。これを、明確に指摘したのは、アドリエンヌ・リッチ氏である。虫は、彼女の「嘘、秘密、沈黙」を読んだ後に、世界の見方が全く変わってしまった時のショックを今でもありありと思い出せる。男性中心的な世界観を受け入れた女性は、主体性が持てず、権利も自分自身のために行使しようとしない。そこで、文化的なかたよりを是正し、女性に主体性を取り戻そうという社会文化運動が現在のウィメンズリブであり、フェミニズムである。
 つまり、ウィメンズリブは、文化運動なのだ。
 英語で議長というときの“chairman”が、man、つまり女性が議長になることを想定しておらず、“chairperson”に変えられていることをご存知の方も多いと思うが、これがフェミニズムの成果なのだ。

 ところで、ウィメンズリブを「男は外に働きにいき、女性は家で家事をする」という役割分担(これを性的役割分担、ジェンダーという)を破壊するものとお考えの方も多いと思う。この役割分担は「主婦」を生んだ。後に外でも働く女性もいることから、おそらく兼業主婦に対峙するものとして「専業主婦」なる言葉が一般的になった。日本のフェミニズム界隈では、未だにキャリア・ウーマン対専業主婦といった無意味な対立をあおる人がいる。
 そして、この「男は外に働きにいき、女性は家で家事をする」という役割分担を「昔からそう決まっている!」とかなり感情的に主張する男性の姿をよく目にする。少なくとも以前は多かった。
 しかし、昔から決まっているわけではない。「外に働きにいく」というのはどこにいくのだろう?工場や会社である。工場や会社は大昔からあるわけではない。産業革命以降の産業化の波にあらわれたところに出てきたのだ。実は「専業主婦」というのは、産業革命の副産物なのだ。
 昔の生活を考えてみよう。たしかに、かぐや姫では「おじいさんは山に芝刈りにおばあさんは川に洗濯に」とある。男性と女性ではする仕事が決まっている傾向があったかもしれない。地方の風習にもよるだろう。しかし、どちらも、「家の仕事」であったし、互換性もあった。お金を獲得するのは「男性の仕事」に限られず、女性の機織り(はたおり)や内職も重要な資金源である。自営でいる限りは、役割分担は流動的だったはずだ。なお、以前紹介した「武士の娘」では、椿油で有名な奄美大島では、女性が外で椿油をしぼったり、自治に関する仕事などをしているあいだ、男性が家事や子守をする役割分担があったと書いてある。
 子どもの世話や家の掃除をしたり食事をつくったりする仕事は直接賃金は支払われないが重要な「仕事」である。家事ばかりでなく、身の周りの世話や、自分の体調管理なども生きていく上で欠かせない。こういった「仕事」をシャドウ・ワークという。シャドウ・ワークを女性に一任することで、企業はより効率的に男性労働者から搾取できる。子どもの世話をしなければならない父子家庭の父親に残業が難しいことを考えればわかる。そこで「専業主婦」なる概念を発明し、婦人雑誌で宣伝し、まつりあげたりしたのだ。「専業主婦」が企業のプロパガンダにすぎないことがわかれば、無意味な対立と言ったのもおわかりいただけると思う。(正確に言えば、日本の場合は欧米のプロパガンダを輸入したのだ。)
 なおシャドウ・ワークには学校の進学や資格取得のための勉強なども含まれる。詳しくはI・イリイチの「シャドウ・ワーク」をご参照いただきたい。

 前提のはずのフェミニズムについて長くなってしまったので、今回はここらへんで終わりたいと思う。
 しかし、「文化の偏差」を是正するのがウィメンズリブであるとすれば、やはり男性に対しても「あるべき男性の姿」を押し付ける文化のかたよりを是正するのが、メンズリブであることを考えて欲しい。このかたよりは実は同じようなものかもしれない。

 この世界はマスコミも、学校も、テレビも、本も、雑誌も、もちろんインターネットも巧妙な方法で私たちに一定の理想像つまりパターンを押し付ける。
 もしそのごく限られたパターンから外れている場合、疎外された苦しみが私たちを襲う。

 例えば、首都圏や都市部に住んでいる人は多く、テレビなどの何気ない話題もそういったところに住んでいることを前提とした話が多い。これが、田舎で放映されている場合に「都会はいいなぁ」と思わせないだろうか。少なくとも話題の対象になれる。
 例えば、「両親がそろった家庭」を当たり前の前提として話される。これが離婚や死別などで片親の家庭の子どもをどれだけ傷つけているだろう。両方いない場合はもちろんである。
 例えば、異性愛を前提とする話をされた場合、自分が同性愛であることを自覚している人はひそかに傷つくだろう。
 例えば、何気なく家族という代わりに「妻子」という言葉をつかった場合、これを受け取った女性は、これは女性が受け取ることは想定していないと思う。自分とは関係のないことだと思ってしまう。

 その「押し付け」の文化的影響から私たちは自由になれない。まず、そういった影響を受けていることに自覚的になるのが大切だと思う。そして、あからさまであれ、そっとほのめかすものであれ、メッセージを読み取り、それを受け取るか拒否するかを主体的に決めることがはじめの一歩かもしれない。

 「不思議な国のアリス」のルイス・キャロルは、数学者でもあるが、わかりやすく数学について書いた別の本で、「結論を飲み込むものは、その前提も飲み込むことになる」としている。

 メッセージの裏に隠されているものを考えれば、おいしそうな果実(結論)にどんな葉っぱ(前提)がくっついていたのかわかるだろう。飲み込むことで、マイノリティを傷つけるメッセージは、受けとりを拒否すべきではなかろうか。
 

9・11はアメリカのオウム事件〜「自爆テロリストの正体」を読みました。

             国末憲人   新潮新書

 9・11事件やロンドン地下鉄での同時多発テロ、モロッコでのテロ事件など、ここ10年くらい、自爆テロが次から次へと発生し、何物にも代えがたい貴重な命など多数の損害が発生している。

こういったテロリストにどういったイメージをお持ちだろうか。

アメリカでは、これらの事件をきっかけにイスラム教徒=テロリストというイメージが先行し、同国で暮らす、アラブ系やイスラム教徒である人々、イランやトルコ出身の人達は住みにくさを感じるようになったようである。アメリカのテレビドラマを見ていたら、トルコ系の若者が、9・11をきっかけにイスラム教徒の友人としか付き合わなくなり、姉のボーイフレンドに敵意を燃やすようになったと訴えるお母さんが出てきていた。困ったものだ。

 素朴なイメージとして、「貧困層」出身の「敬虔なイスラム教徒」の青年が、「西欧を知らず中東の世界に固執して」そういった自爆テロに走るという感じではないだろうか。確かに、この本を読むまではばくぜんと虫もそのようなイメージだったと思う。

 しかし、違うのだ。

まず、「貧困層」出身ではない。
 かといって大富豪でもないが、そこそこ裕福な生まれである。9・11事件の容疑者、アタは父親が弁護士だ。やはり自爆テロリストのモハメド・ムハニはスラムの出身だが、その地域では初の大卒である。どちらかといえば成功した部類だろう。

 次に「敬虔なイスラム教徒」などではない。
 「彼らをイスラム教徒と呼ぶのは、オウム真理教(ま、名前はなんであれ)を仏教徒と呼ぶのと同じくらい間違っている」と捜査関係者は語る。
 アルカイダなど、彼らが属する集団は、擬似イスラムのカルト宗教である。イスラムのあちらこちらから適当に教義を寄せ集め、中にはキリスト教からも拾ってきている。家を回って布教するやり方は、「エホバの証人」から学んだようだという。やれやれ、カルト同士で学びあっているというわけだ。
 モハメド・ムハニの家に取材にいった筆者は、家に宗教色がほとんど全くないことがわかる。日本でも、形式的には寺の檀家だが、全く仏教に興味がないという家があるのと同じである。ヨーロッパやアメリカでも、形式的にキリスト教の洗礼を受けるが、教会なんか全くいかない人がゴマンといる。それと同様に、ムハニの家はフランスに住んでいるということもあり、非常にフランス風な、イスラム色の全くない家だったという。
 そして、モハメド・ムハニ自身も非常に世俗的な普通の少年時代を過ごしたようだ。実際、自爆テロの2,3年前にカルトに入って、急にムスリムイスラム教徒)ぶるまでは宗教に関することなど、彼から一切聞いたことがなかったという。

 そしてもちろん、「西欧を知らず、中東の世界に固執」しているわけでもない。フランスで育ったモハメド・ムハニはもちろん、大卒など、優秀な学歴の持ち主が多い。ビン・ラディンなど、ケンブリッジかどこかに語学留学していたらしい。そういう優秀な人達が西欧文明に触れないわけがない。差別を受けるなどのショックがあって、西欧にイヤ気がさし、カルトに走る人が多いということだ。また彼らのテロで、差別が拡大すると思うのだが・・・。

 このカルト宗教の上層部は、自らテロはしない。行くのは、下っ端の鉄砲玉である。
 常に信者を募集しているが、主としてモスクの外、刑務所の中で近づくケースが多いという。
 モスクにはイスラム教徒であれば誰でも入れるイスラム教の教会である。しかし、中ではモスクの宗教的指導者の監視があるから、モスクの外で近づくケースが多いという。イスラム教指導者に感化力があり、ムスリムにその指導力を発揮しているところでは、こういうのにひっかかるケースは少ないという。指導者が未熟なところではカルトがのさばっている。本物のイスラム教に触れれば、カルトにはひっかからない。他の宗教でもそうだが、本物に触れると偽物が稚拙なことがわかるのだ。
 刑務所でイスラム教徒や他の宗教に入る例は多い。マルコムXなどが有名である。刑務所はもともと自分を見つめなおすところであるし、環境が変わると心細くなるというのもある。教誨師など、まともな宗教的指導者の指導のもとにまともな宗教に入るなら、さほど害はなかろう。しかし、この手のカルト宗教が送り込んだ募集人は運動の時間など、他の囚人と交流できる時間を使い、さびしそうな大人しそうな囚人に狙いを定めて、口説き落とす。「本当のイスラム教に興味はないですか。あなたが受けた不当な仕打ちの復讐をしたくないですか。」囚人のほとんどが自分が受けているのは不当な仕打ちだと考えているのだ。

 そしてカルトにひきいれられると、こんなのが待っている。

  • テキトーな教義。イスラム教だとシーア派スンニ派があり、それは4代目のカリフを認めるかどうかで異なっている。しかしテロリストが持っていた「教え」の小冊子には、アリというカリフについて書いてあり、普通スンニ派では書かないものだった。テキトウなのだ。
  • こまごまとした作業を儀式と呼んで、手順などを厳しくやらせる。
  • 天国を盛んに引き合いに出して、死を美化する。これは「太陽寺院」事件と同様だそうだ。
  • 夜を徹しての祈り

 これはまさに、オウムがやっていたものではなかろうか。オウムと同様、彼らも隔離され、洗脳される。
 そして、自爆テロリストを育てて送り出す。

 
・・・9・11ってアメリカのオウム事件だったのか〜。いままでこれについて読んだ本のなかで最も納得できた。

 しかし、ほんとカルトってこわい。

 オウムでも高学歴が多くて話題をさらったが、テロリスト(=カルトにひっかかった人)も高学歴が多い。確か、アタとかどっかの工学部でてたような・・・。
 マルチにひっかかるのも同様で、実は高学歴(といってもそこそこ)な人が多いそうである。だいたい優秀な高卒か出来損ない(いいとこに就職できなかった)大卒が多いのだとか。

 上の学校に行っているということは、それだけ他人(先生)のいう事をきくという意味もあるからね・・・。

 今度の選挙で敗北した「K福の科学」や「Sか学会」がテロに走らないか、見張る必要があるかも。



 



 

さよならマイホームドリーム〜「住宅喪失」を読みました

                  島本慈子     ちくま新書

昔「夢にまでみたマイホーム〜」なんていう歌の一節があった気がするが、「マイホーム」はほとんどのサラリーマン家庭にとっての夢だった。今でもそうだろう。

しかし、今・・・その夢が遠ざかりつつある。

 派遣村の時に、自動車工場の閉鎖にともない、解雇された派遣社員が会社の寮に住んでいたため、家を追い出される事態が発生し問題になった。

 これは、工場以外で働く非正社員、さらには正社員にとっても他人事ではない。いつホームレスになるかわからない事態が現実となりつつあるのだ。

 派遣や契約社員などで働く非正社員は、雇用が不安定だからせめて持ち家を買いたいと思う人もけっこう多い。最近は独身女性がそういった希望を持っていることが多いらしい。

 しかし、派遣や非正社員ときいたとたん、銀行は住宅ローンを組ませてもらえない。なお、少数ながら借りられるところもあるが、金利が高い。なぜか貧乏なほど損をするらしい。現金で買えれば別だが、そうもいかないだろう。

 正社員も、以前のように昇給や残業代が出ない。だから、昇給や残業代を見込んで住宅ローンを組んだ人が返せず、家を手放すハメになることが最近は多いのだという。
 もちろん、リストラをされると払えなくなる。
 リストラと離婚が家を手放す理由のほとんどだという。

 持ち家を手放した場合、賃貸に住まなければならなくなる。賃貸では敷金や礼金などがいるが、そもそもお金がないために家を手放すハメになったのだ。持ってるわけないだろう。持ち家を手放した場合は普通以上に住むところを探すのが難しくなる・・・なんかヘンな話だ。

 なお、これから持ち家(マイホーム)の購入を検討されている方は、この言葉を覚えておいて欲しい。
ノンリコースローン」だ。金融機関でローンを組む際、このローンにしたほうがいい。これでないと、下手すると預貯金まで差し押さえられる危険があるが、これは担保である家だけ手放せばよい。敷金・礼金も出るというものだ。
 
 正社員の数が大幅に減り、非正社員が増えている現在(なお、労働人口の流動化というのはそういう意味だ)正社員であっても持ち家、つまりマイホームを持ち、それを維持するのは難しい。

 あらためて考えて見ると、住宅ローンの前提は終身もしくは長期の雇用であり定期的な昇給である。それが崩れている現在、住宅ローンを利用したマイホームの夢もくずれざるをえない。

 ◇  ◇  ◇

マイホームがマンションである場合、「マンションの建替えの円滑化等に関する法律」というのがある。

マンションの建て替えに賛成するマンションの住民が多数の場合、反対した少数派住民が追い出されるというものだ。買取はされるが、マンション価格の下落が多い現在では補償になるまい。

建て替えに賛成と軽く言うが建て替えには費用がいる。つまり、反対するのはローンを組みたくても組めない、定年退職後の高齢者など、経済的弱者である。

賛成の場合も、やっとローンを完済してマイホームを手に入れたと思ったら、こんどは建て替えのためのローンを組むハメになるのだ。

 
 これはひどい

 ◇  ◇  ◇

この本にアメリカのホームレスの言葉としてこんなのが紹介されていた。

「誰からも出て行けといわれない部屋を持つことは自分が地球上に存在する意義を持つこと」


 人は住むところがあって、はじめて人間らしい最低限度の生活が送れる。

 これに自由主義経済の競争原理を適用するのは間違いではなかろうか。人は誰でも、経済的に圧迫されずに、最低限の住まいを確保する権利を持つべきである。これは、人間の尊厳に深くかかわると思う。