メンズリブ入門〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました。(1)

           スティーヴ・ビダルフ     菅 靖彦 訳    草思社

 ウィメンズリブ、もしくはフェミニズムについては最近日本でも広く認知されてきている。上野千鶴子さんなどのご著書などを拝見すると、日本のフェミニズムは欧米のものとはちょっと違うような印象を受けるが、今回はそういう話ではないので置いておこう。

 この本は、メンズリブ運動に関する本である。メンズリブなるものがある事は知識としては知っていたが、実際にどういったものなのかはこの本を読むまではわからなかった。男性が自分自身についての理解を深める実によい本ではないかと思う。日本にいる男性全員にこの本を読んでほしいと思う。メンズリブに目覚める男性が増えれば増えるほど、本当に幸福な男性が増え、その結果この社会は住みよくなるのではないか。女性にとっても、男性からの抑圧が減り、建設的な男女関係が築けるチャンスが増え、よりよく生きることができる。

 だがこの本の内容について話す前提として、ウィメンズリブフェミニズム)について触れておいたほうがいいと思う。このテーマで本が書けるぐらいだが、さらっとまとめる。
 初期の女性解放運動と呼ばれていた頃のウィメンズリブは、選挙権の獲得を目的とした政治運動である。平塚らいてう、青踏社などである。この頃にも文化的側面はあったが、「男性のように働く」こと、さらにいえば男性のようになることを目的としていた部分が多かったと思う。なお、男性では未だにこの初期のフェミニズムの理解からすすんでいない人が多く、「男のようになってどうしようというんだ」などと未だに的外れな批判をよせてくる。
 さて、選挙権は女性に与えられた。日本は比較的早く、もう60年以上も前のことである。
 しかし、「女性は男性より劣っている」と信じている女性は多く、権利が与えられても行使しようとはしない。
 これは、文化の中の女性の理解に男性中心的なかたよりがあるためではないかと考える人がでてきた。これを、明確に指摘したのは、アドリエンヌ・リッチ氏である。虫は、彼女の「嘘、秘密、沈黙」を読んだ後に、世界の見方が全く変わってしまった時のショックを今でもありありと思い出せる。男性中心的な世界観を受け入れた女性は、主体性が持てず、権利も自分自身のために行使しようとしない。そこで、文化的なかたよりを是正し、女性に主体性を取り戻そうという社会文化運動が現在のウィメンズリブであり、フェミニズムである。
 つまり、ウィメンズリブは、文化運動なのだ。
 英語で議長というときの“chairman”が、man、つまり女性が議長になることを想定しておらず、“chairperson”に変えられていることをご存知の方も多いと思うが、これがフェミニズムの成果なのだ。

 ところで、ウィメンズリブを「男は外に働きにいき、女性は家で家事をする」という役割分担(これを性的役割分担、ジェンダーという)を破壊するものとお考えの方も多いと思う。この役割分担は「主婦」を生んだ。後に外でも働く女性もいることから、おそらく兼業主婦に対峙するものとして「専業主婦」なる言葉が一般的になった。日本のフェミニズム界隈では、未だにキャリア・ウーマン対専業主婦といった無意味な対立をあおる人がいる。
 そして、この「男は外に働きにいき、女性は家で家事をする」という役割分担を「昔からそう決まっている!」とかなり感情的に主張する男性の姿をよく目にする。少なくとも以前は多かった。
 しかし、昔から決まっているわけではない。「外に働きにいく」というのはどこにいくのだろう?工場や会社である。工場や会社は大昔からあるわけではない。産業革命以降の産業化の波にあらわれたところに出てきたのだ。実は「専業主婦」というのは、産業革命の副産物なのだ。
 昔の生活を考えてみよう。たしかに、かぐや姫では「おじいさんは山に芝刈りにおばあさんは川に洗濯に」とある。男性と女性ではする仕事が決まっている傾向があったかもしれない。地方の風習にもよるだろう。しかし、どちらも、「家の仕事」であったし、互換性もあった。お金を獲得するのは「男性の仕事」に限られず、女性の機織り(はたおり)や内職も重要な資金源である。自営でいる限りは、役割分担は流動的だったはずだ。なお、以前紹介した「武士の娘」では、椿油で有名な奄美大島では、女性が外で椿油をしぼったり、自治に関する仕事などをしているあいだ、男性が家事や子守をする役割分担があったと書いてある。
 子どもの世話や家の掃除をしたり食事をつくったりする仕事は直接賃金は支払われないが重要な「仕事」である。家事ばかりでなく、身の周りの世話や、自分の体調管理なども生きていく上で欠かせない。こういった「仕事」をシャドウ・ワークという。シャドウ・ワークを女性に一任することで、企業はより効率的に男性労働者から搾取できる。子どもの世話をしなければならない父子家庭の父親に残業が難しいことを考えればわかる。そこで「専業主婦」なる概念を発明し、婦人雑誌で宣伝し、まつりあげたりしたのだ。「専業主婦」が企業のプロパガンダにすぎないことがわかれば、無意味な対立と言ったのもおわかりいただけると思う。(正確に言えば、日本の場合は欧米のプロパガンダを輸入したのだ。)
 なおシャドウ・ワークには学校の進学や資格取得のための勉強なども含まれる。詳しくはI・イリイチの「シャドウ・ワーク」をご参照いただきたい。

 前提のはずのフェミニズムについて長くなってしまったので、今回はここらへんで終わりたいと思う。
 しかし、「文化の偏差」を是正するのがウィメンズリブであるとすれば、やはり男性に対しても「あるべき男性の姿」を押し付ける文化のかたよりを是正するのが、メンズリブであることを考えて欲しい。このかたよりは実は同じようなものかもしれない。

 この世界はマスコミも、学校も、テレビも、本も、雑誌も、もちろんインターネットも巧妙な方法で私たちに一定の理想像つまりパターンを押し付ける。
 もしそのごく限られたパターンから外れている場合、疎外された苦しみが私たちを襲う。

 例えば、首都圏や都市部に住んでいる人は多く、テレビなどの何気ない話題もそういったところに住んでいることを前提とした話が多い。これが、田舎で放映されている場合に「都会はいいなぁ」と思わせないだろうか。少なくとも話題の対象になれる。
 例えば、「両親がそろった家庭」を当たり前の前提として話される。これが離婚や死別などで片親の家庭の子どもをどれだけ傷つけているだろう。両方いない場合はもちろんである。
 例えば、異性愛を前提とする話をされた場合、自分が同性愛であることを自覚している人はひそかに傷つくだろう。
 例えば、何気なく家族という代わりに「妻子」という言葉をつかった場合、これを受け取った女性は、これは女性が受け取ることは想定していないと思う。自分とは関係のないことだと思ってしまう。

 その「押し付け」の文化的影響から私たちは自由になれない。まず、そういった影響を受けていることに自覚的になるのが大切だと思う。そして、あからさまであれ、そっとほのめかすものであれ、メッセージを読み取り、それを受け取るか拒否するかを主体的に決めることがはじめの一歩かもしれない。

 「不思議な国のアリス」のルイス・キャロルは、数学者でもあるが、わかりやすく数学について書いた別の本で、「結論を飲み込むものは、その前提も飲み込むことになる」としている。

 メッセージの裏に隠されているものを考えれば、おいしそうな果実(結論)にどんな葉っぱ(前提)がくっついていたのかわかるだろう。飲み込むことで、マイノリティを傷つけるメッセージは、受けとりを拒否すべきではなかろうか。