男とセックス〜「男の人ってどうしてこうなの?」を読みました(4)

                     スティーヴ・ビダルフ  菅 靖彦 訳   草思社

【はじめに】
 更新が遅れてしまった・・・。この題名を見てもらうとわかるように、かなりタブーな話題な上に、考え始めるといろいろ浮かんで筆が止まってしまうためである。ウーマンズリブもそうだが、メンズリブも、現実社会の思想の偏りを排除するという思考実験のようなところがある。こういった切り口で性について考えたことは今までなかったので、非常に新鮮である。考えるきっかけを与えてくれたことが、この本を読んでよかったと思う点である。
 というわけで、取り急ぎのメモだと思って見て欲しい。いずれ、これを発展させてみようかと思う。

【本論・セックスの社会における位置づけ】
 まず、大前提から。一般的に男性は女性に比べて性欲が強い。これを否定する人もいないと思うので、大上段で書いておく。

 この男性の性欲が、どのくらいの規模かはわからないが相当な利益があると思われる売春産業(小説やマンガや写真、ビデオ、映画なども含む)を支えている。ちょっと前に、(無料、画像)とだけ入れてぐぐってみたら、ほとんど無料で見られるエロ画像だったのが笑えた。自然の写真画像が欲しかったのでぐぐりなおしたが。ネット上でも本屋でも、呼び込みが立っている街の一角でも、ものすごい規模で栄えていることはわかる。

 ところで、父親や身近な男性から、男性の振舞い方をあまり学べない男の子はテレビや映画などを通じて、男のあり方を学ぶ。その中にジョン・ウェイン高倉健など、「感情を表さない」ことが男性の理想像としてあり、多くの男性は感情を表すことをおそれ、人前では抑圧している。「男のくせに泣くんじゃない」というのはあまりにも典型的である。泣くことは精神的健康に良いとおもうのだが。

 その中でセックスに関する分野は唯一といっていいぐらい、男性が感じていることを表現しても非難されない場である。性欲がなくなると人類は滅びるからだろうか。(そして逆に通常は感じていることを自由に表現できる女性が性欲を表現すると「淫乱」などと非難される)誰もはっきりとは言わないが、そういう不文律があると思うのは空気の読みすぎだろうか。この逆転現象は面白い。

 セックスや性欲を卑しいものとするのが社会の位置付けである。それゆえ、性欲を持つ男性は無意識のうちに自分を卑しいものと考えてしまう。これは男性のほとんどが共有する劣等感のようなものだと思う。
 しかし、セックスや性欲は本来は決して悪いことではない。種の存続に欠くことができないものだ。
 この劣等感のバリエーションで、性欲を刺激する女性の存在を憎む女性嫌悪ミソジニー)がある。ミソジニーの歴史は長く、西欧の中世の魔女狩りの背景にこれがあったという説も見た事がある。これは、もちろん、女性ではなくて、自らの性欲とその制御が難しいことを嫌っているのだろう。
 
 性的魅力のある女性にたいする嫌悪というのは、かなり一般的な現象である。男性は「興奮させられている」と考えて、その女性が男性をあやつる力を持っていると考える。
 それは全く違う。いかなる女性も男性をあやつることはできない。男性自身が特別な目でその女性を見ることで、自分が興奮させているのだ。選択権と責任は男性自身にある。
 あけすけに言えば、「ペニスにふりまわされるな」ということだとビダルフ氏は言う。

 それで、売春産業やこういった価値観が産み出すのは「卑劣漢」である。(以下は再引用で、原典は『身障者と男性』というジェイ・ノア氏の本である。なおノア氏は身体にしょうがいがあるとのことだ。短めに編集してある)

 「卑劣漢」は自尊心が低く、他人と親密な友情を育めないと思っている。親密な交際を通して得られる幸せをあきらめた彼は、他人(=女性)を搾取する対象とみなす。
 これは支配することで自分自身を証明しようとする冷酷な試みである。
 その時、卑劣漢は、のぞき趣味の人間・ポルノ愛好家・強姦魔・連続殺人犯・子どもに性的ないたづらをする者になる。

 自信のない男性は、対等な人間としてアプローチし、拒まれる危険を冒す代わりに自分達の欲求を満たすため、腕力、卑劣さ、お金といった力に頼りたい誘惑に駆られる。女性はそのために大きな代価を払う。

 売春産業は男性の感情を貧しくする。多くの男性は人間関係の複雑さに対処するよりは「偽の愛」を買うことに心地よさを感じる。

 しかし、全ての男性は愛されることを必要としているのだ。あるがままで認められ、やさしく扱われ、日々の親しさを経験する必要がある。
 偽の愛は、本当の欲求を満たさず、虚しさがのこる。

【セックスを神聖さを見出す】

 「卑劣化」を促進する売春産業には、気をつけよう。

 セックスは身体や身体の一部だけでするものではなく、全人格的行為なのだ。スピリチュアルな融合体験でさある。

 男性で誤解している人が多いのが、「射精=クライマックス」と思っているが、実際は「射精≠クライマックス」だと氏はいう。

 男性のクライマックスは謎が多く、未だに解明されていない。が、両者は別モノだという。射精は何の感覚もなく行われる条件反射にすぎない可能性が高いらしい。

 何かの調査で、「性行為で女性は男性の何倍も感じている」といった結果があった。ライフハックだと思うが。男性と思われる羨ましそうなコメントがたくさんついていたと思う。だが、「クライマックス」に達していないのだから、当たり前だろう。性的な無感覚のままで、あがいているのだ。

外側の機械的な行動や行為にあまり力点を置かずに内部の感覚的、感情的な体験の質を重要視することだという。

ちょっと抽象的なのでわかりにくいかもしれない。著者は二つの引用を対比することで、なんとなくわからせてくれていると思う。ちょっと長いが、再引用する。

最初の引用はケン・フォレットの「飛行艇クリッパーの客」。この作品は知らないが、よくあるソフトポルノといった感じである。

 こんなはずじゃなかった、と彼女はかすかに思った。彼は彼女をやさしくベッドに押し倒し、弾みで彼女の帽子が脱げ落ちた。「いけないわ」と弱々しく彼女は抗議した。彼は彼女の唇に唇を重ね、そっとはさむようにしてもてあそんだ。彼の指がシルクのパンティーごしに・・・


 お気づきだろうか。

 全て動詞とそれを修飾する副詞である。つまり、行為と、それがどんな行為かということしか書いていないのだ。

 このてのやつはほんとうに多い。いわゆるロマンス小説なんかにも多い。

 実に外形的、機械的だ。

 だから飽きがくるのだろう。後はシチュエーションとか色々変えるだけだけど、本質的には大して違わない。

(文章でなくて、画の系統も同様だ)

 次の引用はこれだ。

 彼女はバーキンとともにいた。彼女は星々に逆らい、雪深いここに誕生したばかりだった。親や先祖と何の関係があっただろう?彼女は自分が新しく生まれ変わったことを知っていた。父も母もなく、祖先とのつながりもなかった。ただ彼女は彼女自身であり、純粋で銀色に輝いていた。バーキンとの一体性だけに属し、その一体性は深い音色をうって、彼女がかって存在したことのない宇宙の中心、真実の核心に響いた。

D・H・ロレンス恋する女たち」からの引用である。

内側から外側に向かい、真の体験から描かれている。こうしたことができるのは偉大な作家だけだ。


 セックスは、聖なる魔法の体験だ。

 だがそれに到達するためには、まず、自分自身を理解し、それから外に向かう。内なる成長が必要である。それには、思ったより時間がかかるかもしれない。

 内なる野生を解き放つ行為である。だから自然のリズムを取り入れることがカギだという。