人の精神という素晴らしいもの〜「レナードの朝」を読みました。
オリヴァー・サックス 春日井晶子 訳 早川書房
これは昔、映画を観た。
最近、インフルエンザが流行っているが、第二次大戦後にインフルエンザが大流行した際に、それと時を同じくして、おそらくその後遺症と思われる眠り病と呼ばれる奇妙な病気にかかった人がたくさんいた。亡くなった方も大勢いたが、生き残った人は不思議な病に苦しむこととなった。
彫像のように動くことができなくなったり、呼吸発作をという苦しそうなモノを起こしたり(映画のなかで、ロバート・デ・ニーロが見事に再現している)、自分から動くことができず、普通の人(スタッフなど)がちょっとさわってあげると、動き出すことができるのだ。
この脳炎後遺症患者を収容するマウント・カーメル病院で働くオリヴァー・サックス医師による患者さんたちの記録である。
この脳炎後遺症に新薬ができた。L−ドーパという薬である。効果があるという話を聞いて、投薬してみることにした。高いのだが、病院のスタッフがカンパしてくれたのだ。
このL−ドーパは劇的な効果を見せた・・・長年、彫像のように硬直していた人が動き出すのだ。彼らは長い眠りから覚めた(病気が流行ったのは1926年、投薬開始は1969年。40年もの間、精神的には眠っているも同然だった)
しかし、素晴らしい効果の後に副作用もあり・・・そして、逆に悪化しはじめたり、効果がなくなっていった。
ついに、サックス医師は決心して、L−ドーパの投薬を止め、人々は元の病状に戻っていったのである。なお、映画ではサックス医師はロビン・ウィリアムズが演じている。
◇ ◇ ◇
精神というのは、実に見事な調整作用を持っている。例えばこの病気のある人は前に移動しようとしても、逆方向の力を感じてどうしても前に進めない。力いっぱい進もうとしてもダメなのだ。健康な私たちが毎日何気なく行っている前へ進むという行為。これは、私たちの脳が力加減を見事に調整して、実行できるのだ。そのありがたみがわかる。
同じ事が、じっとする行為(どうしても動いてしまう患者さんがいる)、立ったり座ったりする行為にもいえる。
この調整が上手くいかなくなるのが病気なのではないか。小さいころ好きだった絵本の作者にかこさとしさんという人がいて、この人は精神科のお医者さんでもあった。
大人になってから、エッセーを読んだが、この人が言うには実は「正気」というのは積極的に定義することはできず、「精神的な病気ではない」としか言えないということだった。
うーん、調整が上手くいかなくなって、「おー、こういうしくみだったのかー」ということがわかるようだ。
そういう意味では、本当に面白い、興味がつきない。
とりわけ面白いのは時間の調整をする機能だ。もちろん、客観的な時間の流れではなく体感時間である。
彫像のように立っていた男性が時々見ると手をゆっくりゆっくりあげてなにやらしている。といっても時々、振り返って見ると手があがっているなとわかる程度だ。「だるまさんころんだ」というゲームをしたことがある人は大勢いると思うが、自分がオニであるかのように、見ると止まっているのだが、ゆっくりと動いている。
後でその男性に何をしていたのか聞く。
「鼻をかいていただけですよ、先生」という驚愕の答えである。
偶々、その男性をずっと撮影していたので、フィルムをコマ送りにして見ると、確かに鼻をかいている。
そこで、その男性に鼻をかくのにとてつもなく時間をかけていたことを話すと、「え、そんなに時間かかっていたんですか。おかしいなあ」という答えであった。
逆に時間が早くなるのもある。
映画の場面でも印象的だったのが、患者さんがあつまってトランプをする場面である。
はじめは、全く動かない。この病気の人は何かを自分で始めるというのがとても苦手なのだ。廊下などでも動かない人がずっと立っていたりする。スタッフや見舞いの人が、ちょっと手を触れて上げたり、横で一緒に歩いてあげると、歩き始める。トランプもスタッフの人が手を貸して、最初のカードを置いてあげる。
そうすると目にも止まらぬ速さで次から次へとトランプのカードが置かれ、あっという間に終了する。撮影して、コマをゆっくりにすると、はじめてちゃんとゲームをしていたのがわかるくらいだ。これはマネできない。
この人達は、「気が狂って」いるわけではない。内部には正常な精神が宿っているのだが、それを調整して上手く表現する精神的機能に障害があるだけである。
精神が肉体に命令して適切な調節をする機能である。肉体という牢獄に閉じ込められたようなものだ。
映画の題名にもなったレナードという患者さんは、リルケを引用し、黒豹が檻に閉じ込められているようだという。
そのために強いられる孤独感と、病院という非人間的な環境から、本当におかしくなってしまう患者さんも少数ながらいる。女性の患者さんのなかには、環境に上手く適応し、「目覚め」を楽しむ人もいる。
こういった病に苦しむ人を救うのは、薬だけではない。他の人との暖かい触れ合いである。病院のお役所のような冷たさ、非人間性が病気を悪化させていることはサックス医師も、指摘している。ある患者の女性は妹さんと外出する日には、妹さんによれば、全く症状がなくなるという。病院での孤独な日々がはじまると復活するのだが・・・。触れ合いといってもごく、軽いものだ。廊下で彫像のように立ち尽くす患者さんの手をちょっと握ってあげるだけで、何かがとけたかのように、その人は歩き出す。
触れ合いとともに大きな役割を果たすのは、「音楽」である。音楽がかかっている間だけ患者の人格を統合して癒やし、症状から解放して自由な動きを可能にする。(「あなたは音楽/音楽が鳴っている間は」T・S・エリオット)
この点について、音楽教師だったエディスという患者は深い洞察力をもって語る。
病気とともに彼女は「氷の額縁に入れられた写真」のような気持ちになった。それは視覚的な平面でしかなく、物質でも生命でもない。この生命のない世界、時間のない非現実的世界で、彼女は動きも救いもない状態であり続ける。
そこに音楽が訪れる。
「それはいろいろな歌、ずっと前から知っている曲、覚えやすい曲、リズムカルな曲、踊りたくなるような曲なんです。」
心の中に音楽が湧き出ると身体を動かす力、行動する力が唐突に戻ってくる。彼女は自分が物質であること、人格があることを思い出し、額縁から外に飛び出すことができる。自由でなめらかに動くことができる。
カントは音楽を「人をせかす芸術」と呼んだが、エディスに関して言えば、それは字義通りの意味である。彼女が持つ速さ、生きて動いているというアイデンティティと意志は音楽によって呼び覚まされるからだ。
音楽・・・とりわけ気に入った音楽は、素晴らしい効果があるようだ。確かに、かったるくてやる気がおきない時はお気に入りのCDなどを聞くと進みだす、、、と思う。