SF抒情詩〜「太陽の黄金(きん)の林檎」を読みました。

           レイ・ブラッドベリ      小笠原豊樹 訳  ハヤカワ文庫
 

 昨日も書いたと思うが、どうも、SFは苦手である。時々、読んでみようかな・・・と手を出すものの、やっぱり「ミステリの方が面白いや」と思ってしまう。そのためか、天秤の片方に読んだことあるミステリをのせ、もう片方に読んだことのあるSFを載せるとすると、SFの方は軽〜くはねあがり、天空のかなたに飛んでいってしまうに違いない。

 しかし、この日記でも紹介した、ケンリックの小説の中の人物が、ブラッドベリを読んで作家になるのをあきらめたという話をしていて、それ以来、ブラッドベリだけは、どんなものか、読んでみようかなという気持ちをひそかにあたためていた。

 この短編集は初めて読むブラッドベリである。

 読んでみると、文が非常に美しい。小説というより、詩だ。

 しかも、抒情詩である。

 あ〜でも、詩もちょっと苦手なんだ・・・。

 あまり、あえこれ考えずに文の美しさを味わってみようか。今までないタイプの読書である。
この人の作品は、ストーリーを紡ぎだしていくものではない。基本的に情景描写だ。絵だ。


「霧笛」

 突拍子のない、リアルでシュールな絵である。

 海の底から恐竜が現れるとは!

 水竜でもないかぎり、水の中では生きられないだろうとつっこんでみるが、そういった整合性はどうでもよさそうである。挿絵はどうみてもT・レックスだし・・・。

 なぜか郷愁をそそる、美しい絵である。

 なんか見覚えがあるような気がしていた。最後に載っている解説で、中島梓さんが、この短編を萩尾望都さんが好きでマンガにしているとのこと。萩尾望都は一時期好きで読みまくっていたことがあり、おそらく、それで見たのだろう。そういえば、「ウは宇宙船のウ」だったか、マンガで読んだ。これも確か、レイ・ブラッドベリ原作。原作は読んだことないが。


「目に見えぬ少年」

 これは、ファンタジーっぽくて、抵抗がない。

 老女が嘘をついているあたりが、人間の悲しさを感じさせる。


「人殺し」
 この作品の中の、無線通信機・・・現代の携帯に置き換えれば、ぴったりである。

 常に心そこにあらずの状態の人をよく街中で見かける・・・というか、信号が変わっても、うんざりするようなのろのろ歩きで気付く。「携帯見ながら、歩くんじゃねぇ!」と心の中で何回悪態ついただろう。

 どうして、今、ここで生きないんだろう。携帯のコンテンツや、ここにいない遠い人との会話に生きないで。
 


「黒白対抗戦」

 これはSFではない。とあるいなか町の黒人対白人の野球の試合を題材に、黒人差別を行う白人の醜さが描かれていると思う。

 黒人チームが、ダイヤモンドに出てくるところの描写がいい。メイドなどをしている黒人娘の声援を受け、白人の子ども達も「がんばれ〜」と声をかける。ポップコーン販売をするビッグ・ポウは子どもにもなじみだから。ビッグ・ポウは軽く踊ってみせる。

 黒人チームがのびのびと自然にふるまっている様子、彼らが走っているときは、身体全体でこんな風に言っているのだ。生きてるって楽しい!走るくらいすてきなことはない。

 それに比べて、後から出てくる白人チーム・・・醜い。日頃の運動不足(力仕事を黒人に任せているから)がたたって、デブが多い。走るにせよ、「ほらみて、走ってるんだよ」と叫んでいる感じである。ギャラリーを意識して、面白いことを言おうとしていて・・・それが面白くない。ひと言でいえば、自意識過剰なのである。

 心理学でいう「学習」という心理的反応がある。ある言動をした場合、その前提となっている観念をその人の心の中で強化するというものだ。「差別的な言動」をするということは、その前提となる観念を強化する。それは、白人が黒人よりまさっているという概念か?それもあるが、人は、別の人の批判を気にしているという前提概念がある。つまり、悪しざまにいっている黒人たちは、その言葉に傷つくだろうと思っている。これは自分についても、他人にどういわれるかが重要だという前提概念を強化することになる。だから、人目を気にして、醜い態度をとるようになるのである。

 白人席で、隣のおばさんが、「彼らにはリズム感がある」なんて恩着せがましく言うところも醜い。作者は、白人の子どもとして参加するが、この行事が、街の黒人社会の楽しみであること。選手もギャラリーも黒人は皆楽しんでいる様子をうらやましそうに描いている。

 試合自体も、圧倒的な体力差で、黒人のほうが有利だが、わざと三振したり、「社会的な地位」ゆえに黒人たちは気を使う。試合自体も平等ではないのだ。これも、力仕事を黒人に押し付けたツケだと思うが。

 特に、スパイクで一塁手の足を踏みつけ、とっくにアウトなのに、白人であることをカサにきてセーフといいはる男がいて、醜さもきわまる。こういった「差別」を声高に叫ぶのは、くずみたいなヤツが多い。踏まれたのはビッグ・ポウ、彼は審判(白人)がアウトというのに、スパイクに踏まれてびっこをひいているというのに、セーフといってやる。・・・かっくいい。

 「差別」というのは、実は差別する側にも害が大きいのではないか。なんてことを考えさせられたし、いきいきとしている黒人たちの描写が美しい。いい小品だと思う。


サウンド・オブ・サンダー

 意訳すると雷の(ような)音か。

 これはタイム・トラベルの際に問題となる点をかなり鋭くついている。要は、過去に旅行すると、その時代の物を変えることになるが、それが未来である現代にどう影響するかということである。

 映画のバックトゥザフューチャーのシリーズにも描かれているし、そういえば、ドラエモンもそうだ。タイムスリップはわざとではないので、仕方がないとして・・・。

 ドラエモンはよく覚えていないが、バックトゥザフューチャーのシリーズは、かなり、いい加減であった。競馬年鑑を未来から持ってきて、競馬を大勝ちするなんて、これは後で戻しても、到底修正できないような・・・。パート3で、何人もの「本人」が行き来するあたり、めちゃくちゃである。

 これらに比べると、この短編では厳正である。実際、これくらいすべきである。この短編では、タイムトラベルした先での狩猟を売る会社が出てくるが、もうすぐ、死ぬ運命である生き物以外は撃ってはならない。指定した場所以外行ってはならない。
 そこの登場人物も言っているが、例えば誤まって、ねずみを一匹殺したとする。
 そうすると、そのねずみから生まれるはずだったねずみの存在が消える(ねずみはねずみ算というくらいたくさん子をつくる)そうすると、そのねずみを食べるはずだったキツネが消え、そのキツネを食べる予定だったライオンが消える。こういった連鎖反応で、実際何が起きるかわからない。植物を踏みつけて枯らしてしまったためにそういった連鎖が起こりうる。(これは書いてないが、植物でも言えるハズ)
 人間もこれらの動植物を食べているのだから、飢えをしのぐはずだった動植物が消えれば、人間も死ぬ。その男(政治的な正しさなどないころの作品なので男だけだが女も)から生まれるはずだった子孫も消える。

 バックトゥザフューチャーのタバコをやめないとガンになって死ぬとか、分かりやすい変化ばかりではないのだ。

 一つのささいな出来事で、別の反応を生み、それがさらなる反応を生む。これらを修正することは不可能である。

 この中では、狩猟のときのささいな違反をしたために、帰ってくると、良かったはずの選挙の結果が最悪になっていた。その「違反」が蝶を踏み殺してしまったことである点が、バタフライ・エフェクトを思い起させる。

「小さなチョウのはばたきが
地球の裏側で台風をおこすこともある。」
         “カオス理論”

 というヤツである。

 だとすると、タイム・トラベルなんて絶対無理!