まっすぐ立つ〜「自省録」を読みました。(3)

     マルクス・アウレーリウス  神谷美恵子 訳   岩波文庫

何かするときいやいやながらするな。

利己的な気持ちからするな。

無思慮にするな。

心にさからってするな。

君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。

余計な言葉や行いをつつしめ。

なお君のうちなる神をして 男らしい人間、年配の人間、市民であり、統治者である人間の主たらしめよ。
その統治者は何者にも縛られることなく、人生から呼び戻される合図を待ちつつ、宣誓をも、証人をも必要としない者としてその地位に就いたのである。

曇りなき心をもち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要としないようにせよ。

(人に)まっすぐ立たせられるのではなく、(自ら)まっすぐ立っているのではならない。


 「ローマ市民権」というのは、現在の全ての国家における市民権の源である。男性であるローマ市民は皆原則として平等であり、代表者を通じてローマ帝国の意思決定に関わることができた。彼らは自由であって、なにものにも縛られない。以前のエントリにも書いたと思うが、古代ローマの皇帝は独裁者であったわけではなく(ただ、その皇帝の時代にもよったが)、不十分ながら民意の反映がはかられていた。
 聖書の使徒行伝で、当時違法だったキリスト教の伝道をしていた弟子たちが、見つかるとすぐに拷問され殺されていたが、ローマ市民権を持っていたパウロだけが、つかまった後ローマ市民権を持っているとわかるとすぐ拷問が止められて、きちんと裁判されたので印象に残っている。それだけ、「特権」だったのだろう。
 この点で、女性や奴隷達と異なっていた。奴隷はローマ以外の領土で生まれた者や借金がかさんで自ら身売りしたものたちである。
 現在では「市民」は女性やいかなるところで生まれた者も含めるまでにその範囲を拡大している。これも、フランス革命などの先人の努力の結晶である。

 それなのに、『政府や「偉い人」が、あるいは親や教師が、つまりは他人が、・・・してくれなかったから、自分はこんなに〜〜だ。』といった愚痴を言ってしまったり、思ってしまうことがある。これは奴隷根性に他ならない。自分の存在が「ご主人」である**の意のままになると思っている点でそうだ。自分の頭で考え、自らまっすぐ立っている人間が、「人」にどう思われるかを気にするだろうか。言い換えれば、自分自身の主人になるということだ。それが、自由ということではないだろうか。自由は、自らの欲にまかせて快楽を追求することではない。

 また、「〜〜を法で規制すべきだ」というのも、モノにもよるが、奴隷根性になりうる。「法」という国家権力をかさにきて、気に入らない事を排除しようとするのは、まさにそうではないか。「法」をつくる際は「法」自体の効果を客観的・中立的に検討し、社会を良くするのに効果的と思われる場合にだけ用いるべきである。強制力を伴う「法」をたくさんつくれば、それだけそれを執行する公務員が必要になり、税金も高くなるということである。その結果、その「法」の対象の自由ばかりでなく、他の自由も奪われかねない危険が生じる。

 せっかく自由を与えられていても、人に頼ってまっすぐ立たせてもらってばかりいれば、その自由は簡単に奪われる。ローマでも、贅沢や賭け事などのため、借金をして、その借金が返せないと自分自身を奴隷として売るはめになるローマ市民は多かった。賭け事(競馬、競輪、パチンコなど)やショッピング中毒のため、消費者金融やクレジットカードでお金を借りすぎ、破産をする者が多い現代と同じである。奴隷にならないだけまだマシだが。

 自分自身の主となり、自分自身の頭で考えた決定を行い、その行動についての責任を全面的に負うのが、自由な市民たるゆえんである。
 自分自身の「自然」に従った決定であれば、自分自身、そして、社会に対しても、最も有益な行動であるはずである。

 マルクス・アウレリウス自身はこのような言葉で言い換えている。

 だから、私は言うのだ。君は単純に、自由に、より善きものをえらびとり、これをしっかり守れ。「しかしより善いものとは有利なもののことだ。」もしそれが理性的存在としての自己に有利ならば、それを守るがよい。しかし、それが動物的存在としての自己に有利ならば、それをはっきりと表明して、思い上がることなく自分の判断を固守せよ。但し、この検討をあやまりなく行う注意が肝要である。

 ど〜も、動物的存在としての自己しか、考えていなかったような気がする・・・。理性的存在としての自己・・・ねぇ。どっかにいたような気もしないでもない。

 他人や社会も変えられればいいが、まず、なによりも自分自身を変えるのが肝心である。

 これはいつの世も変わらないと思う。まずはじめは自分自身から、なぜなら、自分の支配領域だからである。

 小人や愚か者というのは、いつでもいる。マルクス・アウレリウス自身が宮廷で忍耐力を試されているというのがわかる。あちらこちらに書いてあるのだ。

 彼らに怒っても、もし、彼らに理解の及ばないことであれば、無駄である。

 マルクス・アウレリウスは言う。「口臭の臭い人にそう言わないだろう?」(確かに。)

 それと同じようにそういう人に腹を立てても仕方ないと。

 しかし、普通はこう反論される。「彼は理性を持っている。ちょっと考えればわかるはずだ。」

 けっこう。君も理性をもっているよね?理性的な態度で、忠告しなさい。もし、相手が耳を傾けるなら、君は相手を癒やしてやれる。怒る必要はない。

 だから、他人よりまず、自分自身である。
 
自分の態度や考えを注意深く観察し、自分の内に集中せよ。理性的指導機能(虫注=良心?)は正しいそれによって平安をうるときに自ら足れりとするものである。

 

 自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。

 実に内容が濃いので、この本でいくらでも続けられるが、もう他の本も読んでしまったので、これくらいにしておく。
 座右においてたえず見直したくなる本である。