探偵達への都市の影響〜「フェルモア先生、墓を掘る」を読みました。(ちょっとネタばれ気味)

             ロビン・ハサウェイ      坂口玲子(訳)  ハヤカワ文庫

 確かチャーチルの言葉だったと思うが「人は環境をつくる、しかるのちに、環境が人をつくる」といった意味の言葉があった。住まいや部屋といった狭い意味にもとれるが、広く、住んでいる街にも影響をうけているのではないか。

 たしかにこれまで読んだ探偵たちを思い起すと、舞台としている都市の影響を感じざるをえない。

 以前の日記で紹介した、サラ・パレツキーの生んだ女流探偵、V・I・ウォーショースキーは現代シカゴのリベラルで、威勢のいい感じが出ているし、さかのぼれば、クレイグ・ライスのマローン弁護士とヘレン&ジェイク・ジャスタス夫妻は禁酒法直後の華やかなりしシカゴという舞台があってこそ輝く。

 2/13の日記で紹介したネロ・ウルフとその助手のアーチー・グッドウィンはニューヨークに住んでいる。ネロ・ウルフは非常に博学なインテリである。これもアメリカ随一の大都市で大きな本屋から本を買うことができるからだろう。アーチー・グッドウィンの社交性は、都会っ子ならではといえる。
 この日記では紹介していないが、エラリー・クィーンもニューヨークに住む。(このシリーズは、作家と探偵の名前が同じである。また、これも有名な話だが、作家は二人いて一緒に書いていた)クィーンもインテリであり、印象に残っているのは、ペダンティックでちょっとウザく感じるほどである。たとえば、(ま、なんでもいいけど)何気なく、ぶどう酒というとすると、それに関するうんちくを述べるのである。起源は・・・とか、古代ギリシャでは・・・など。(これはヴァン・ダインの影響かと思われる。)
 これも、ニューヨークという文化レベルの優れた土地柄と切り離して考えることはできない。知的な俗物根性とも言うが。

 この本は、アメリカの小説なので、アメリカの探偵たちに限定しておく。

 さて、今回のフェルモア先生のシリーズの舞台はフィラデルフィアである。

 「フィラデルフィア」とは兄弟愛の街という意味である。1682年にクェーカー教徒であるウィリアム・ペンによって建てられた。この「ペン」からペンシルヴァニア州の名前がつけられたのである。
 クェーカー教徒は、フレンド派とも呼ばれる(日本では友会という)。
 クェーカー教徒はキリスト教プロテスタントの一派であるが、神父や牧師といった、信徒に教えを垂れる「目上」の役職は一切作らず、平等主義を徹底している。(ただし事実上は中心的な人物はいるが、「職業」に固定化していない)ちなみに以前「続・若草物語」を紹介したが、オルコットのお父さんは、クェーカーのそういった人物だったらしい。
 だから、クェーカー教徒はお互いに「兄弟・姉妹」なのである。
 それで「兄弟愛の街」なのだろう。ここは、クェーカーの影響抜きにして語ることができない街である。

 そして、クェーカー教徒は、質素を旨とする。言い換えれば、「地味」なのだ。昔のクェーカー教徒の絵を見ると、女の人がボンネットをかぶっているところなどがある。もうとっくに流行遅れなのだが、質素を尊び、ずーっと着ているのである。

 フェルモア先生は、そんな地味〜な街のお医者さんである。街の性格を反映しているのか、まるで、赤ひげ先生で、お金儲けに縁がなく、食べるのがやっとという感じである。(ちなみに私立探偵でもある)
 そして、歴史好き・・・やっぱり、フィラデルフィアの人っぽい感じである。


 ◇     ◇     ◇

 このように、地味な、親しみのもてる探偵であることが、この作品の一番のいい点である。ハーレクィン中毒の看護婦兼秘書のドイル夫人もよくいるタイプだし、ホレイショというヒスパニック系の少年を使い走りとして雇ったところもいい。この少年から人種も階級も年代も異なることから、彼の世界についていろいろなことを教えてもらう。逆に科学的知識を教える場面もあり、実は頭のいい子だとわかる。

 また、今回の事件はフィラデルフィアの保守性を背景としている。つまり、建前では、平等な「兄弟愛」の街なのだが、現実は、れっきとした階級社会である。人種間はもちろん、白人の中でも、「ついた順」の差別がある。どういうことかというと、イギリスから最初に来たメイフラワー号を最上等とし、それ以降に到着してきた新参者をバカにする差別である。新しいほどバカにされる。「メイフラワー号でやってきたときから血筋をたどれるーー家」というのが、ボストンの旧家の誇り高いキャッチフレーズであり、やはりアメリカ東部にあるフィラデルフィアにもそういった差別はある。ボストンを舞台にした小説では、必ず書かれている。ミステリではシャーロット・マクラウドのセーラ・ケリング・シリーズにも背景として描かれている。以前紹介したモンゴメリの「丘の家のジェーン」にもボストンのイヤな面として描かれている。

 一流の外科医ハードウィックの出身は、やはり「先祖がメイフラワー号でやってきた」フィラデルフィアの旧家で、妻のポリーもフィラデルフィアの名家の出身であった。
 しかし息子のテッドが婚約者として連れてきた女性は、アメリカン・インディアンのレニ=ラナピ族の出身のスィート・グラスだった。
 「ついた順」なら、はるか以前に、ユーラシア大陸から地続きだったアメリカ大陸に歩いて渡ってきたアメリカン・インディアンのほうがはるかに「上等」なはずである。しかし、白人でないので勘定に入らない。傲慢このうえない。
 そのスィート・グラスが殺され、フィラデルフィアにある、レニ=ラナピ族の墓地と伝えられる場所にインディアンの埋葬方法と同じ姿勢で埋められる。
 ホレイショ少年の飼い猫の埋葬を手伝い、死体を発見したフェルモア先生が調査に乗り出す。

 このスウィート・グラスという女性、クェーカー教徒になったばかりだった。

 クェーカーの礼拝は、他のキリスト教(とりわけカトリック東方教会聖公会等)と異なり、形式を一切廃している。牧師さんなどがいないという点はさきほど触れたが、何か話をするのは信徒である。聖霊が降りてきて、「自然と」話しをはじめるまで、じっと黙っている。沈黙の中でそれぞれ、「内なる光」つまり誰もが自分の中にある神様との対話をする・・・ことになっている。
 クェーカーの結婚式もやはり、簡素なものであり、友人や家族に「聖霊が降りてきて」話をはじめるまでは、黙って座っているとこの本にあった。そんな簡素な式をスィート・グラスは望んでいたということである。

 簡素で単純なクェーカーのライフスタイルは、考えてみるとインディアンのタバコをまわしのみ終わるまで、黙っているといった風習や、手作りで素朴なライフスタイルと親和的である。

 しかし、よくあることだが、テッドの家族(とくにお母さん)は、派手な式を挙げさせようと圧力をかけてくる。
「家柄」を鼻にかける、フィラデルフィアの特権階級らしい。がんばれ!って死んじゃったけど・・・。

 そういった文化の衝突が物語の背景にある。


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 この小説は比較的、人物がこまやかに描きこまれていて、フィラデルフィアの社会風俗、お医者さんの社会やアメリカンインディアンについて面白く読むことが出来る。

 他方、本書はいわゆるコージーミステリ、つまり「居心地の良い雰囲気」を楽しむものに分類されると思うが、推理小説としての組み立てにはちょっと不満が残る。
 
 この手のミステリの犯人は、たいてい「ヤな奴」で本書も例外ではない。

また、結末そのものは明かさないが、実はこのトリック、別の推理小説で読んだことがあった。
 しかもよく考えて見ると、そちらは短編、医師が主人公なのも似ている.パクリ疑惑である。さらに言えば、一番最初には、クリスティの短編で見た気がする。この本で三冊目。

 本書のトリックは、短編用であり、こんなに長く書く必要はない。もっとも、大人しいお医者さんが探偵役なのに、なぐられるわ殺されかけるわで、展開的にはけっこうハードボイルドである。
 虫はもう何度も読んだネタなので、「気付くのが遅いわ!」と途中で思い、まー殺されかけるのは、トロい罰なのではないかと考えてしまったが・・・。
 
 特に医学用語満載で毒物構造の分析を行うあたりが、逆に素人くさい。「分子構造がことなるため同一の毒物かを分析できる」と、ひと言で書ける事柄である。ここは冗長であった。

 最後にこのトリックについて、ひと言感想を言っておく。虫はこのトリックを知って以来、虫を嫌いな人と同席するバーベキューパーティを極力回避している。