お笑い分類学〜「馬鹿★テキサス」を読みました。

          ベン・レーダー     東野さやか 訳    早川書房

 本の題名に「馬鹿」ってまずくないか?

 と、まず思った。これって差別用語じゃないのか?

 ののしり言葉であることは確かだし・・・

 
 それに 

 正直言うとこの★にひかれて、手にとって見た。文字ばかりが並ぶ本の背表紙のなかで、インパクト満点である。


 ☆     ☆      ☆

 当然、こんな題の本に期待するのは、ただ一つ、笑いである。

 では笑えたか?

 結論から言うとそれほどでもない。ま、「抱腹絶倒」とか本の帯に書いてあっても、クスッとしか笑えないのもあるから、成績としてはそんなに悪いほうではない。何より、虫の好みのユーモアではなかったのだと思う。

 そこで、ユーモアの種類わけをやってみたいと思う。一応断っておくが、これは試論であって、完全な分類をするつもりはない。また、例示は主としてそういった印象を受けるという独断と偏見に基づいており、他の種類のものは行わないという意味ではない。

 まず、緊張の悪反動とししての笑いがある。人間は緊張を強いられると、その反動として笑いがこみあげてくる。(仮に爆発型と呼ぶ)お葬式や結婚式のときに、普段は笑いもしないことがおかしくてしょうがないという事態が起きる。日本のお笑いはほとんどがコレだと思う。一発芸や、変わったしぐさを伴うお笑いは、日頃無意識のうちに強いられている礼儀という緊張を利用したものである。日本のお笑いでいうと、ビートたけし(この人はこれを利用して、たけし軍団なる緊張を強いるものをでっちあげたすごい人だと思う)、ウッチャンナンチャン、TIM、江頭2:50などなど。「お葬式」という映画はまさにこの系統だろう。
 この種類の笑いの特徴は、もともと真面目な人にこそ受ける。言い換えると、もともとの緊張が大きい人であれば、その解けたときの反動が大きいからである。日本のお笑いのほとんどがこれなのは、逆に言うと日本の社会が緊張を強いられている社会であるということの証明である。

 次に、やや、皮肉っぽいスタンスのものがある。(仮に、風刺型と呼ぶことにしよう。)社会の欠点をあからさまに言うのではなく、ぼかした表現ながら、誰もが普段感じていることを表現したものである。おっと訂正、誰もがではない、どちらかといえば、インテリ向けの笑いである。
 ジョナサン・スィフトの「ガリヴァー旅行記」、「モダン・タイムズ」などのチャップリンの作品、ウッディ・アレンの作品などが例として挙げられる。以前この日記で紹介した、サイモン・ブレットもそうである。
 これも、どちらかといえば、真面目な、社会の矛盾などを感じている人に受けよう。チャップリンの映画が日本で受けるのは、そういう背景があるように思う。

 三番目にどたばたコメディ型をあげておこう。虫の好みのタイプである。一定の状況を設定し、そのなかでおかしみを出していくものである。爆発型と似ているが、爆発型はどちらかといえば、日頃からある緊張を利用するのに対し、状況設定により緊張から作り出していくタイプをこう呼ぶことにする。コントや落語はこの系統だろう。
 したがってコント主体のドリフターズ加藤茶志村けんも含む。どちらかといえば志村けんの状況設定は上手いと思う)、吉本新喜劇とその流れをくむもの、コント主体のグループ(コント赤信号、インパルス、デンジャラス、U−turn)などがここに分類できる。この日記でも紹介したカー(コメディタッチのもの)、マルクス兄弟の映画などもここにはいると思われる。
 この亜流で、状況設定自体が、パラレルワールドといっていいほど、現実社会とかけ離れているものがある。論理操作で笑わせるものだ。
 ダウンタウンの笑いは松本人志の作り出す世界の特異さに依存しているし、爆笑問題大田光についても同様である。コメディ自体は(英語なので)見た事ないが、映画「グッドモーニング、ヴェトナム」から察するにロビン・ウィリアムズもコメディアンとしては、このタイプと思われる。ハノイのカフェで、1人で指人形に興じていた姿が印象的である。

 最後に状況設定だけで笑わせるものがある。(仮にホラ吹き型と呼ぼう)架空の状況設定をする点ではどたばたコメディ型と同様だが、その中で緊張感を創造して笑わせるのではなく、状況だけで笑わせる。言い換えれば、オチがない。
 これは、あまり日本にはないタイプだと思う。日本のお笑いは爆発型が主流であり、その次ぐらいに多いのは、どたばたコメディ型である。
 つまり、日本のお笑いは緊張感に依存している。
 もともとある緊張感を利用した爆発型、それを作り出すどたばたコメディ型。
 爆発型は、第一次お笑いブームに属するお笑い芸人に多いが、経済的高度成長期と重なったのは偶然ではない。高度成長をささえるために、疲れすぎた真面目なサラリーマンやそれを裏からささえる家族は、緊張を強いられていて、爆発型を必要としていたのだ。
 経済成長のかげりとともに、それほど、緊張する必要もなくなったので、人為的に緊張感をつくるどたばたコメディ型も時流に乗る。江戸時代などの庶民の娯楽、落語がドタバタコメディ型であることを考えると、元々日本人はのんびりと状況設定から楽しむドタバタコメディ型を好んでいたものと思われる。
 ホラ吹き型は、どちらかといえば、風刺型に近い。ただ、批判的な観点がなく、ひたすら明るい。
 これはホラ吹き男爵(ミュンヒハウゼン男爵)の話、そして、この本に現れるテキサスのホラ話などがそうである。やっと本題にはいるが、だだっぴろい草原で牛や馬の番をするカウボーイは、一日の仕事が終わった後、焚き火をかこんで退屈しのぎにバカ話をする。当たり前の話ではつまらないから、誇張するのだ。
 例えば、「とても大きな長靴」という代わりに、「2頭のくじらが中で泳いでいた長靴」などと言うのである。
 テキサスのホラ話は昔から有名である。

 ふと思った。
 さきほどダウンタウンをどたばたコメディ型に分類したが、それは浜田のツッコミが手伝って、一定の舞台設定というお笑いの伝統的な姿を踏襲しているからだ。しかし、松本の方向性としては、このホラ吹き型を指向していると思われる。その証拠が映画「大日本人」である。虫は見てはいないが、宣伝からすると、ウルトラマンのパロディのような状況設定だけで勝負した作品のようだ。けっこう「面白くない」という映画評が多かったのも、こういったおかしさが日本ではあまりなかったからだろう。


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 シカの着ぐるみを着た男やら、気のふれた鹿、おそろしくマヌケなチンピラ二人組、鹿の体内を利用した麻薬の密輸にアントニオ・バンデラス似の殺し屋などなどが交差するこの話は、明らかに状況設定だけで笑いをとろうとするテキサスの伝統を受け継いでいる。

 設定は楽しいけど、だからなに?とつい思ってしまう。笑いに緊張感を求める悲しい性(さが)だからだろうか。

 主人公はジョン・マーリンという狩猟監督官で、この人が探偵役っぽい。

 しかし、一番印象に残ったのは、とてつもなくおバカなチンピラの二人、レッド・オブライエン(典型的なアイルランドの名前である)とビリー・ドン・クラドックである。

 この二人が大親友になったのは、結婚がきっかけだった。

 しかし、結婚式で知り合って・・・とかそういうことではない。

 二人とも同じ女性と結婚していたのだ。同時期に。

 それぞれ「亭主」として大ゲンカしていた時、当の女性はこっそり逃げ出していた・・・。

 「なんじゃありゃ」ってことになり、それから大親友になった。

 この二人に殺人の後片付けなどの重大犯罪を依頼するさらにマヌケな金持ちがいたことが、本書の事件の原因である。

 この二人に密猟やかっぱらい以上の犯罪は、無理だったようだ。もらったお金をビールやお菓子やジャンクフードに使うぐらいしか能がない。
 「死体は埋めました」なんてテキトーなことを言って、車のトランク(依頼主から借りた車)に入れっぱなしにしとくし。そりゃつかまるよね。


 ということで、日本にはなじみの薄い「お笑い」の入門書と考えるとまぁまぁかもしれない。

 こういった「ホラ」はある意味、人間関係の潤滑油である。風刺型と異なり毒がない。今後「経済成長」や「緊張感」ではなく、「ロハス」で、「ナチュラル」な生活をみんなが追い求めるようになると、こういった「お笑い」が主流になる可能性もある。