日記の日記〜「面白すぎる日記たち  逆説的日本語読本」を読みました。

               鴨下信一     文藝春秋

 これも、日記であるが、日本人ぐらい、日記の好きな人達はいないようだ。学校でも夏休みの日記なる宿題がたいていあったと思う。

 なにしろ、戦時中、軍隊で日記を書くことが奨励されていたぐらいである。おかげでアメリカ軍は、戦死した日本兵のポケットや背嚢(リュック)から、日記を拾いあつめ、それを読むと、日本軍のありのままがダダ漏れである。戦時中、情報将校だったドナルド・キーンはそんなのばかり読んでいたそうである。

 記憶というのは、しばらくすると、自分で都合いいように変わってしまう。書くことによって、経験を咀嚼し、新たな成長がある。虫もこれを書いた読書は、以前のものより、深みが出てきた気がする。読むという経験は、書くというアウトプットによって、より深化されよう。読む以外の経験もまたしかりである。

 本書は、そんな日記のあれこれを語ったものである。


 ところで、日記はいつ書くのか。
 夜、その日にあったことを書くというイメージである。
 しかし、アンディ・ウォーホルは次の朝書いた。昨日顔を出したパーティーで聞いた、噂話ばかり。これはこれで、資料的価値がある。
 ついでながら、ご存知とは思うが、アンディ・ウォーホルはキャンベルの缶詰のデザインでも有名な画家である。

 「原田日記」については、以前犬養道子さんが、「主観的で信用できない」というふうに書いていらした。(これを直接読んだことはないが)確かに、思い入れがたっぷり伝わる。
 戦前、軍国主義に傾いていくときの重臣西園寺公望の秘書原田熊雄の日記である。「」が多く、本人の口ぶりがそのまま残されている。そのため、雰囲気が伝わり、これはこれで、立派な資料だという。
 なるほどね。犬養さんのそのエッセーは、日記も客観的にという話につながる。どうなのだろう。日記も客観的に書くべきか。
 確かに、あまりにも主観的すぎ、自分のことや自分の内面だけを書いても、逆に伝わらないと思う。「悲しい」とか「楽しい」とかだけだと、何が悲しかったのか後で読んでもわからなくなる。具体的に、飼っていた犬が死んだので悲しいとか、具体性があったほうがよい。
 でも、客観的すぎるのもつまらない。やはり、その人の思い入れが伝わるのがよい。人の話をそのまま採録するのは、けっこう大変である。そういう客観性はあるのではないか。

 これと対照的なのが、やはり、同時期に政府にいた木戸幸一の日記「木戸日記」である。こちらは簡潔である。

 声帯模写などで一世を風靡した、古川ロッパ。なんとおじいさんは初代東大総長で、父親は男爵である。しかし、戦後、急に人気がなくなり、落ちぶれた。
 セリフがひとことしかない台本をつきかえしたいが、あまりにも貧乏で・・・といった愚痴話が長々と書かれている。外に出ないとか日記を書くために生きているとか・・・悲しいぐらい現実的である。
 これもおそらく、翌日の昼間に昨日の事を書いたと思われる。

 不思議なことに、日記となると、その日の天気を書くのが常道である。夏休みの日記もそういえばそうだった。今はネットがあるので、夏休み中の過去の天気も検索可能でうらやましい。
 藤原定家は、天気のことを、晴れとか曇りとかだけでなく、雲の形から陽射しの強さまで、細かくかいていたそうである。
 考えてみると確かに、ものすごい大事件があり、それをすぐ書きたいのに、天気から入る・・・ってわかるような気がする。日本人だのー。
 半七捕り物帳で有名な明治の小説家、岡本綺堂は、几帳面にも、毎回体温を測って記入していた。
 しかし、記録魔といえば、この日記はすごい。
 「光クラブ」事件の山崎晃嗣の日記である。この「光クラブ」事件は、東大法学部の学生だった山崎晃嗣の高利貸しの事件であり、小説などにもなっている。
 この日記なんとはじまりは午前0時である。そして、縦軸をひいて、時間と行動を記録する。例えば、1時30分就寝準備、10分、空想、妄想、20分と。
 そして、それぞれの時間の有用性を○、△、×で評価しているのだ。
 濃い人生を送りたかったのかな・・・結局自殺してしまうのだが。


 「『暗室』日記」は、吉行淳之介の影の愛人(表の愛人はM女史)、大塚英子の日記である。
 「ぼくちゃん」と称するこの方との会話がえんえんと記され、地震の記述が異常に多い。しょっちゅう、地震が起きる日本では、震度3ぐらいでそうさわがないのが普通であるが、この人はキャーキャーさわぐ。
 
 囲われているという閉じ込められた境遇のため、吉行淳之介の電話を常に待っている状態だったという。そのため、買い物など以外は家を出ず、TVつけっぱなしで、すぐに地震速報が確認できるという状況が生み出した「恐怖症」であることは想像にかたくない。

 この日記、セックスの回数まで書いている。(業務日誌?)

映画監督の小津安二郎の日記は、映画作品さながらに簡潔。
 しかも、同じ日の日記を5冊ぐらいの日記に書いていて、すこしづつ表現がかわっている。こんな具合である。

1月3日(木)
 雪降る 昼寝 亜紀子くる(妹)
 無為
  ↓
1月3日(木)
 雪ふる
  ↓
1月3日(木)
 朝酒程ほど それから昼寝 夜良成と会食 雪積もる 寒い 夕方晴れる

 これ全て同じ日についてで、同時平行で書いていた。おそらく、推敲し、書き直したのだろう。
小津映画はそういった取り直しが多いときいた。
 簡潔でも大変である。