京都の人とつきあう前に知っておきたいこと〜「京都スタイル」を読みました。
甘里君香 新潮文庫
まず、知っておきたいのは、コレである。
相手の家の玄関で話していて、「ほな、ぶぶづけでも」と誘われた時。
絶対に、絶対に、「いいですね〜、いただきます」なんて言ってあがっていってはイケナイ。
陰で、子々孫々までボロクソに言われてしまう。
このセリフと「ぶぶづけ」がお茶漬けであることは、知っている人も多いと思う。お茶漬けではなくて、「コーヒーでも」とか「コーラでも」でも同じ事だ。
京都の人は、基本的に相手を家の中に入れることを嫌っている。話していると、愛想もよく、適度に持ち上げてくれる。それにうっかりのって、「家の中」に踏み込もうとすると、途端につまはじきにされる。
愛想良くしゃべっていても、相手が帰った途端、その舌の根も乾かないうちにその相手をボロクソに言う。
「いけず」なのだ。
「いけず」は、共通語でいう「いじわる」という意味とほぼ同じだが、京都人の「いけず」は、もはや、文化といってもいい。嫉妬心を発散させる、知的エンターテインメントである。
京都人もしみじみと思うらしい。「京都人はいけずやなぁ」。
この筆者はどう「いけず」なのかを尋ねてみた。
「人がようなるのを良しとせんのでしょうなぁ」
なるほど。誰にでも、心の奥底にあるドス黒い感情、嫉妬心を認めているのだ。これを認めて、嫉妬心を抑える装置をいろいろつくっているのだ。
「ぶぶづけ」に象徴される、「遠慮」もその一つだろう。「家の中」に入れ、お互いによく知り合うと、嫉妬の種が増える。ぐちゃぐちゃになる前に、関わりあわないのが一番である。
相手が誘った場合だけではない。筆者は、彼女が「家に遊びに行く事」を誘った京都の人の「じゃあ、片付けをしないと」とにこやかに言った言葉が、断り文句であることにやっと気付いた・・・1日中電話を待った後で。
目の前で扉をピシャンと閉められるようなこういったことは、確かにきつい。
東京だったら、義理としてもされるような招待が、京都では全くされないという。
京都の人は、どの相手とどれくらい付き合うのかという決定権を決して相手に渡さないのだ。「家の中」には決して入れない。入り込ませようともしない。
だから、そういうつき合い方に慣れるしかない・・・、付き合うというより、ちょっと合わせているだけという感じであるが。
もうひとつ、これは確かに腹立たしいだろうなと思うのはこれである。
何気なく、相手の意見を聞く。
「AってBだと思いません?」
すると、相手が一般論で返すのである。
「Bだという人もいてはりますなぁ」
この筆者も、最初、何が不愉快なのかわからなかった。相手の巧みな話術にひっかかったのだ。
「わたしはアンタの意見を聞いてるの!」そう、怒鳴りつけてやりたいと思ったそうである。無理もない。
これが、なんとしても責任を取りたくない、京都人の話法と気付いてから「京都人の忍法」とつぶやいてやりすごしているそうだが。
そんなたいしたことでもなくても、特定の意見を持っているとバレるとあとで何をいわれるかわからない。(京都人同士ではそうなのかもしれない)そこで一般論に逃げる。人とガチでぶつかることを避けるわけである。
嫉妬心を回避するのは、次の方法による。
自慢しない。お金を儲けていても、そうみせない。京都の経営者は外車に乗らないらしい。
高価なものは隠す。
自分のことだけを考える。
お節介はしない。
物の貸し借りはしない。
家の内情は見せない。
常に自分がいちばん。
「自己中心的」とあるが、これは逆に言うと、自分なりの価値観をしっかりもっているということだ。
そして、時代に流されない。
東京と比べて言えば、確かに、東京という都市(まち)には流行や時代に流される刹那的なところがある。もともと、「宵越しの銭をもたない」など刹那的なところがあった上、東京には、学校や仕事のために上京する人達が後をたたない。そういった人たちは、都会の派手なところにあこがれていた面もあり、また東京にあわせようとして、流行や時代を追う。東京の人はほとんどが、上京した田舎の人なのだ。
これに対して、京都の人は、特に人口が流入するわけではない。他の田舎から来る人もいるが、京都の人は排他的であり、決して「仲間」になどしない。「家に入れない」からだ。したがって、京都の古い歴史がそのまま生きているといっても過言ではない。その歴史は長く、流行や時代を追ったところで、一旦権力者からにらまれればおしまいである。
だから、京都の人は、時代や流行にながされない。確固とした価値観を持っている。口には出さなくても。
自分のスタイルを持ち、それを人に言わないが、人にも口を挟ませない。
学ぶ点はたくさんあると思う。