リアル・パイレーツ〜「海賊の掟」を読みました。

              山田吉彦                 新潮新書


  映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のシリーズや、スティーブンソンの「宝島」などから、海賊のイメージはつくられてきたと思う。

 とりわけ印象的なのは、宝島のジョン・シルバーである。左足がつけねからなく、松葉杖を器用にあやつる。いつもにこにこしている腰の低い船のコックから、船の乗っ取りをたくらむずるがしこい海賊の本性をむき出しにする場面は忘れがたい。りんご樽の中でジム少年の盗み聞きする場面は、いちばん怖い場面だと思えた。日頃「いい人」と思っていればいるほど、「悪い人」への反転が鮮やかだからだ。

 ディズニーランドの「カリブの海賊」に乗れば、海賊のイメージそのままである。容赦なく、船や人々を襲い、ラム酒でのんだくれる。金銀財宝が大好きで、恐いもの知らずの冒険家でありながら、自分が助かるためなら平気で仲間を裏切る。

 実際の海賊はどうであろうか。古今東西の海賊の姿を、簡単に描いているのが本書である。なんせ、海賊というのは、海上貿易の歴史とともに発生し、現代にも生き続けているのだから、詳しく書いていったらきりがない。

 ☆シーザーと海賊
 ローマ帝国の英雄、シーザーは、一度、海賊にさらわれたことがある。そのときの自分の身代金を「自分はそんなに安い男ではない」と、当初の要求額を自らアップさせたそうである。さすがに大物、やることがちがう。
 といっても、その金額を用意できず、あちらこちら駆け回ってようやく工面できた。
 自らを解放させると、返す刀で、そのまま、海賊征伐に行き、身代金を取り返して、海賊をやっつけたそうである。さすが。
 しかし、このころから海賊がいたことがわかる。

 ☆女王陛下の海賊

 サー・フランシス・ドレイク、「キャプテン・ドレイク」は、イギリス公認の海賊である。そのころ、スペインは中南米や南米の富をほしいままに略奪し、他の国との貿易を禁止していた。キャプテン・ドレイクは、密貿易を行って、利益を得、スペイン船を襲ったりしていた。当時のイギリス君主、エリザベス1世は、キャプテン・ドレイクの他にも、多くの海賊船に私掠許可状を与え、敵国の船の略奪を許可した。これを私掠船という。そうやって、スペインの国力をそいだのである。
 エリザベス1世は、ドレイクの冒険話を気に入り、ナイト(騎士)の称号をドレイクに授けた。以後、女王は、彼を「私の海賊」と呼んだという。
 スペインのフェリペ2世は、当然ながら、抗議したが、まったくおかまいなし。
 そうやって、イギリスは、1588年〜1603年に、スペインの無敵艦隊アルマダ)を撃破するまでに、力をつけたのである。

 カリブの海賊

 ディズニーランドではカリブの海賊なのに、映画ではパイレーツ・オブ・カリビアンとカタカナ表記なのは、なぜだろう。最近、映画の題名にカタカナ表記多すぎ!と思う。それはともかく、いずれも「カリブ海の海賊」という意味だろう。
 しかし、カリブ海の海賊は「バッカニア」という。

 スペインが破れて、大英帝国が力をつけ、海賊たちが不要になると、私掠船は、普通の海賊に戻り、カリブ海にあつまるようになった。映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の背景にも使われているから、そこをおさえとくとより楽しめるかもしれない。
 映画にも出てくる、トルトゥーガ島には、実際にバッカニアの居留地があり、「悪の巣窟」とおそれられた。現在ではトルチュー島と呼ばれている。
 これも映画にでてくる、イギリス領ジャマイカのポート・ロイヤル(現キングストン)もバッカニアが集まる町であり、イギリス総督は、スペイン船を襲う、彼らの後ろ盾だったそうである。

 バッカニアの中でも、とりわけ残忍さで恐れられたのが、フランソワ・ロロノワと呼ばれた男である。フランス、ブルターニュ出身で、西インド諸島年季奉公に送られた彼は、逃亡してバッカニアの群れに入った。
 ロロノワの残忍さは伝説となっており、八つ裂きや舌を抜く、生きたまま、人間の胸を切り裂いて心臓を抜き出したこともあったという。そうやってお宝のありかを白状させたのだ。1666年のマラカイボ(南米・ベネズエラ)襲撃が伝説となっている。最後はニカラグアインディオを襲ったときに逆に襲われて死んだ。死体は八つ裂きにされたという。

 もうひとり、有名なバッカニアはウェールズ出身の、ヘンリー・モーガンである。(モーガン船長という名で知られている)ウェールズ人といえば、「嘘つきでドロボー」という噂である。偏見だとは思うが。ヘンリー・モーガンに関しては、あたっているといわざるをえない。
 1670年にパナマを襲ったことが有名。当時はまだ、パナマ運河がなく、荷物は一旦陸揚げされてパナマ海峡を横切り、また船に荷卸しされた。そのため、金銀、食べ物が豊富だったという。3000人近いスペイン兵と戦い、パナマ市を徹底的に破壊し、その富を手に入れた。
 しかし、その分配が公平でなく、部下達は不満をつのらせた。75万枚もの八レアル銀貨を手にしながら、部下達には200枚しか与えなかったという。
 そこで、海賊から足を洗い、イギリス国王チャールズ2世とその部下たちに貢物を送って、ナイト(騎士)の地位を得た。
 後にジャマイカ副総督に任命されて、カリブ海にまいもどる。表向きはバッカリアを弾圧したが、裏でバッカリアを見逃して報酬を得ていたらしい。
 その他にも、そうとうめちゃくちゃなことをしていたらしく、公職を追われるはめになる。
 最後は、ポート・ロイヤルの酒場で、酒に身を持ち崩して死んだという。
 
 ふと、思ったが、ジョニー・デップ演じるところのジャック・スパロウは、モーガン船長をちょっと参考にしているかもしれない。「ズルさ」がなんとなく似ている。

 バッカリアの終焉は、1692年のジャマイカ地震によるものらしい。ポート・ロイヤルの町は津波で破壊され、海賊達の船も壊滅的打撃を受けた。その後長い間、ポート・ロイヤルの町は再建されなかったという。

☆地中海の海賊

 地中海を中心に活動した海賊「バルバリー」は、イスラム教を信仰することで一つのグループにまとまっていた。
 バルバリーはバーバリアン(Barbarian)=野蛮という言葉の語源である。

 15世紀から、16世紀にかけて、オスマン帝国の後ろ盾を得て、キリスト教徒の船を襲っていた。コーセアと呼ばれる私掠船である。

 バルバリーに誘拐されると、ガレー船の漕ぎ手とされて、一生オールを漕ぐはめになりかねず、人々に恐れられていた。

 ギリシア人のバルバロッサ兄弟は、イスラム教に改宗し、バルバリー盗賊の頭目になった。また、1571年のレパントの海戦オスマン帝国側の主力はウルグ・アリというアルジェの海賊だった。(これはキリスト教連合軍が勝ったが)

 19世紀になって、オスマン帝国が衰退すると、バルバリーも衰退した。


☆北欧の海賊

ヴァイキングである。

もっとも、これは個人やグループが行うものではなく、極寒の地に住む民族が、存亡をかけて暖かい場所を求める侵略行為であって、他の海賊とはちょっと違う。
 海賊というよりは軍隊であり、侵略した先でノルマン人国家をつくった。征服した国で、殺した先住民族の頭蓋骨をジョッキにしてビールを飲んだという。

☆瀬戸内海の海賊

 海賊自体は日本にも昔からいたが、平安中期に藤原純友(すみとも)が初めて組織化したようである。
元々、伊予国府(愛媛県)で、治安維持の任にあたっていた藤原純友は、取り締まる側だったはずが、海賊の頭目となったのである。
 936年に千隻もの船で、政府の船を強奪する。ちょうどそのころ北関東で平将門が起こした反乱とあわせて、この二人は呼応して蜂起したとささやかれ、あわせて、承平・天慶の乱と呼ばれている。
 純友は、一旦政府の懐柔策にのり、官位をあたえられたものの、また反旗を翻した。「海上王国」をつくるといって大宰府を侵略した。
 
 おそらく、京のかけひきの世界に嫌気がさした純友は、公家のためではなく、民のための理想の国をつくろうとしたのかもしれない。

 しかし、政府は、純友以外の海賊にも恩赦と田畑を与える懐柔策を取り、これが効果的だった。

 結局、941年伊予に敗走した純友は、息子とともに殺され、天慶の乱は平定された。

 当時、国司として海賊対策にかかわった紀貫之は「土佐日記」で、土佐から京に帰る途中の海賊の恐怖を物語っている。なにしろ、海賊が恐くて、夜は海賊が出ないから、と、夜に航海したぐらいである。座礁とかの危険が増すと思われるがそれほどこわかったのだろう。


 しかし、なんといっても、瀬戸内海の海賊といえば、村上水軍である。

 戦国時代、村上武吉(たけよし)という最強の海賊が瀬戸内海に作り上げた海の帝国である。現在では愛媛県今治市(いまばるし)である、伊予大島に隣接する能島(のしま)に本拠地をおいていた。通行料をとり、これに従わない船は積荷を強奪され、乗組員は殺されるか、生涯奴隷として働かされた。
 村上水軍は強力な海軍力を持ち、近隣の大名に招聘されて、傭兵としてたたかうこともあった。1555年の厳島の戦いでは、毛利方の勝利に貢献した。

 織田信長村上水軍に一度敗戦の苦杯をあじわったが、村上水軍の戦法を研究し、船を鉄板で覆って(甲鉄船)勝利を得た。以降、瀬戸内海の制海権は織田方に移り、村上水軍の没落がはじまった。

 秀吉の海賊停止令により、海賊としての活動は終了。関が原の戦いでも西軍についたため、いわば、左遷された小大名の悲しい身となった。


対馬海峡の海賊

 いわゆる「倭寇」、松浦党である。

 長崎県松浦市平戸市は、日本の最西端。遠すぎて、日本の中央政府はあてにならない。彼らは津々浦々の支配者が一同に会し、松浦党としての意見や行動を決める共和制連合体を結成していた。

 すばらしい。日本にもそんなところがあったのか。

 1185年、壇ノ浦の戦いのとき、松浦水軍は、最初は平家方についていた。最初は平家に有利だった潮の流れが、平家が攻めあぐんでいるうちに、源氏方に有利になった。海戦では潮流の上手が絶対的に有利である。海を知り尽くしていた松浦水軍は、平家に勝機のないことを悟ると、船を撤退させ、源氏に寝返ったといわれている。

 倭寇はよく知られているように、前半は日本人が多かった。
 1522〜66年に中国沿岸部を襲った海賊集団(明(みん)の嘉靖(かせい)年間だったため、嘉靖の大倭寇という)には松浦党をはじめ九州北部から瀬戸内海、紀伊半島から薩摩半島の海賊も加わっていた。

 しかし、後半では「倭」とは名ばかりで、朝鮮人・中国人の倭寇が主流であった。当時、明は、海禁政策をとり、海外貿易は王朝が独占した。すると福建省広東省などで貿易で身を立てていた人々は、密貿易に手を染める者が多かった。禁がきびしければそれだけ高く売れるからである。密貿易から、暴行、掠奪に手を染めて海賊になるのはほんの一押しで十分である。

 それらの中国人倭寇も、松浦党は保護した。彼らもまた、密貿易でうるおうからである。そこで、長崎県五島列島平戸島に本拠地を置く倭寇が多かったという。鉄砲の密輸で儲けたものも多かったらしい。

 こういった中国人海賊の1人、鄭芝龍は、松浦党に莫大な利益を与えて、藩士の娘と結婚し、男の子をもうけた。
鄭成功である。彼の活躍は「国姓爺合戦」という浄瑠璃にもなっている。海賊の力を使って、明の再興めざして台湾で活躍した。

 
マラッカ海峡の海賊

 覚えておいでだろうか。

 2005年3月14日、日本船籍の「韋駄天」が海賊に襲われた。

 一隻の漁船が韋駄天の前をつっきると、激しい銃撃をあびせてきた。5人ほどの男はライフル銃やロケットランチャーをかかえている。船員たちは、恐怖で身動きもとれなかったという。

 実をいうと、2001年ごろから、マラッカ海峡には海賊が度々出現しており、ほとんど、船員が誘拐され、身代金が支払われている。

(「韋駄天」事件では船主は身代金を支払っていないと主張している)

 「海賊ってまだいるんだ〜」というのが、この事件を聞いた時の虫の感想だった。

 いる。

 しかも、昔よりはるかに組織的になっている。

 「韋駄天」事件の犯行に要したのはわずか10分。船舶には保安警報装置の設置が義務付けられていて、瞬時に沿岸国の警備機関に通報されるからである。

 こういった、「誘拐」型の海賊は全て組織犯罪である。

 海賊がマラッカ海峡で多いのは、インドネシアには村人全員が海賊の仲間という村ぐるみの犯行が多いからだそうである。
 
 さらに、現代の海賊はテロなどと結びついている。

 インドネシアの大津波の際、救援物資を届ける船が、海賊にあい、すべて持っていかれたというのもあったし、アチェ州の独立運動の闘士と名乗る海賊もいた。

 さらに、海上での自爆テロが起きたことも記憶に新しい。

 海賊は、食料のほとんどを輸入に頼り、その船がこのマラッカ海峡を通ることも多い日本には、現実の、身近な問題なのである。