階級と殺人〜「気どった死体」を読みました。

                サイモン・ブレット  嵯峨澄江 訳   ハヤカワポケミス

 ミセス・パージェター・シリーズの第一弾である。

以降のミセス・パージェターシリーズでパターンとなるのが、ミセス・パージェターが、郊外の住宅地や、パック旅行など、中産階級の人々の集まるところにいく。大ドロボウの妻というれっきとした労働者階級のミセス・パージェターは、いつもちょっと浮いてる。しかし、それが、体裁や実際以上の階級に見せかけようとする中産階級をそれとなく批判することになる。日本の大部分もそうだが、中産階級というのは本当に悲しくなってしまうぐらい体裁を取り繕う。これを、「日本人は」といった言い方をする人もいるが、そうではなく、階級的特性だと思う。日本のほとんどの人達は中産階級。あくなき上昇志向と人にどう思われているかをとても気にする。

 だから、マスコミに踊らされ、欲しくもない物や似合っていない服を購入する羽目になるのである。とりわけ、70年代から80年代に育った人はそういった傾向が強いような気がする。

 最近日本人のほとんどが、中産階級からすべりおちて、労働者階級に移行してきたように感じる。とりわけそれを感じたのは、週刊誌が売れなくなったこと、とりわけ女性誌CancamやJJが売れなくなったことである。これらの雑誌はファッション業界と結びつき、「こんな服がはやる」という例を出していて、それを読んだOLや大学生(若き中産階級である)が、それをマネするというパターンだった。しかし、もう、これらの雑誌をマネして洋服にお金を浪費できる若い女の子は少なくなった。中流階級がいなくなったのである。お金がなくて、ファッション誌をよんでもつまらない。これはマネできそうと思うから楽しいのである。全く手の届かない世界のものをわざわざお金を出して買わない。最近の女の子は、GAPユニクロですらなく、シマムラの服をけっこう買っているという話を読んだが、もうそこまできているんだなと思った。個人的には喜ばしい。中産階級より、労働者階級のほうが、自由だし、魅力的だ。おそらくこれは、日本に限らないと思うが。

 なお、アメリカの話だが、中産階級はやたらと小難しい単語をつかいたがる。日本語でいうと、「跳ぶ」ではなくて、「跳躍する」といった感じか。日本でも、話し言葉でやたらと熟語や漢字のある言葉をつかったり、外来語を使う人は、いかにも中産階級だと思う。本人には言わないが。

 ま、それはともかく、第一作のこれも、いかにもお上品ぶった、長期滞在者用ホテルである。ミス・ネイスミスが経営し、上流階級しか入れない。老後を過ごすための所で、介護が必要な寝たきりの高齢者の世話をする老人ホームの一歩手前のような施設である。

 ここの住人としての条件が「活動的」でなくてはならない。つまり、健康でなくてはならないのである。寝たきりになったが最後、老人ホームに移される。それを恐れる老人たちは、ミス・ネイミスの前では身体の不調を口にしない。あきらかに、認知症である老婦人も、身体の不調を口にしない。

 ところで、本物の上流階級の人達は「上流階級」ぶったりしない。それがわかるところがある。

  「たしかにそうでした。でも私は現実を受け入れました。」レィディ・リッジリーの語調はきびしかった。
 「私がまだ幼い少女だったころ、晩年をこんなデヴァルー・ホテルのようなところで迎えることになるなんて、
 夢にも思いはしなかったわ」
 パージェター夫人は、いまの、レィディ・リッジリーの侮蔑のこもった最後のひと言を、ミス・ネイミスに聞かせてやりたいと思った。上流ぶることと、実際に上流階級の出であることは似て非なるものなのだ。レィディ・リッジリーにしてみれば、このデヴァルーで暮らすことは、、スラムに身を沈めるに等しかった。

 上流階級ぶるのも、中産階級の特徴である。
 例えば、「上流階級は教養豊かで本を読む」と聞くと(実際にそうかどうかはまた別にして)、実際に本を読むのではなく、本を買って、読んだように見せる。ひどい場合は本の背表紙の模様の壁紙を買い、ちょっと身には、本のたくさんある上流のうち・・・のように見せかける。なんか、もの悲しい。

 階級を無視できる強い人間になりたいものだ。

 ミセス・パージェターが、亡き夫、ミスター・パージェターの元部下たちを使うには同じであるが、2作目以降、ほとんどレギュラー出演になっている陰気な私立探偵トラッフラー・メイスンが出てきていない。(この人は喜ばしいことがあると、とりわけ陰気になる)
 それもあってか、手助けは限られた範囲であり、次作以降より自然に感じられた。