事実をよりわける力〜「手ごわい頭脳 アメリカン弁護士の思考法」を読みました。

           コリン・P・A・ジョーンズ    新潮新書

 何やらミサイルがどうのこうのと騒がしい今日この頃であるが、全く関係なく。でも北朝鮮関係の本もいずれ紹介したいと思う。↓本題はコチラ。

 弁護士さんという仕事がある。英語では「lawyer(ロイヤー)」と言う。
 大体、訴えたり、訴えられたりして裁判になったときに弁護してくれるのが仕事である。

 弁護士さん、法律に詳しいと思われるであろうか?法律の名前はもちろん、何条になんて書いてあるか全てわかってるくらい頭がいい。

 虫はそうじゃないかな〜と思っていた。

 ところが。

 日本の弁護士さんは詳しい・・・と思う。おそらく。

 しかし、少なくともアメリカの弁護士(ロイヤー)さんは、詳しくない。どういう法律があって、何条に何が書いてあるのか開業している弁護士もほとんど知らない。

 
 それはなぜか。

 その前に、日本とアメリカの違いをおさらいしよう。

 日本が「国」であるという意味において、アメリカは「国」ではない。

 ややこしい?

 日本という国では、日本政府が主権を持っていて、日本国内で適用される法律は、日本の国会で制定された法である。

 ところが、アメリカ合衆国では、それぞれの州が主権を持っていて、その州内で適用される法律は州議会が制定した法である。

 だから、日本が「国」であるという意味においては、アメリカの各州は「国」なのだ。州は英語の「STATE」を訳したものだが、「国」とも訳される。だから、アメリカ合衆国という。衆というより州だけど。

 ところで、アメリカで弁護士になるためには、普通の4年制の大学を出た後、大学院の一つである「ロースクール」に通う。その卒業の時に営業する州の弁護士の免許をとって、開業する。
 つまり、法律は州ごとに違うのに、教育は全国(?)共通なのだ。(憲法は除く)
 だからロースクールで習うのは、具体的な法律ではない。

 では何を学ぶのか。

 法律的な考え方である。

 生の事実をよりわけて法律を適用する上で重要な事実とそうでないのを選べる力を身につけ、法律が適用されるとはどういうことかを学ぶ。

 だから法律そのものは知らない。州ごとに違うし。架空の州の架空の法律で勉強することも度々だという。

 さらに州の弁護士免許を取るときも、州の法律そのものは試験範囲にならない。ロースクールで法を適用する力を身につけているかを確認するだけだ。これは日本の司法試験にあたるかもしれない。

 法律そのものは知らない。
 だから、開業してはじめて、六法全書やインターネットで調べる。

 「それじゃ〜〜弁護士なんか頼まずに、自分でネットで法律を調べて訴えた方が安あがりじゃん。」と思われるだろう。実際、弁護士の依頼料は高い。アメリカの弁護士事務所は、依頼人のためにどれくらい時間を使ったかで請求されるが、それが高い。今書いていて、弁護士からの請求書の項目に、「横断歩道で依頼人(あなた)だと思って話しかけようとしたらあなたでなかった件・・5ドル」という請求書を渡された人の話を思い出した。

 ま、それはそれとして。

 やはり自力でやるのはお勧めできない。

 法律というのをどう適用するか、そのカンどころを学んでいるのが法律家であり、法律そのものを見ても、素人にはわからないことが多いからだ。家の配電盤そのものは自分のものだから、好きにできるはずだが、その修理には専門家の修理工を呼んだほうがいいのと似ている。修理工は、配電盤の見かたを知っているのだ。

 つまり、法律は、知識ではなく、技術なのだ。
 
 ☆   ☆   ☆

 アメリカでこういった教育が行われるにはワケがある。

 いうなれば、「法」の文化が違うのだ。

 日本では、「お上」である権力者(現在では日本国民ということになっている)が、一定の一般的抽象的な「法」をつくる、それを個別具体的な事実にあてはめる。という考えが根強いと思う。

 ちょっと違うかもしれないが、道に例えると、予め、A地点からB地点にいく道を用意しておく。その交通整理にあたる裁判官や他の法律家の役は、単にその道からそれてるかそれていないかを判定する係にすぎない。

 しかし、アメリカをはじめ、イギリスを発祥とする「法」文化の国では異なる。(一般に英米法と呼ばれている)
 「法」は、誰かがつくるものではなく、実はずっと前からそこにある。人間はもともと(神様と比べれば)不完全な存在であり、そのために「法」が必要である。とすると、人間「共通の」法に違いない。(だから共通の法、コモン・ローという)それを発見するのが法律家の役割である。

 道に例えると、A地点からB地点に行く人が多いとすると、自然に道ができる。その道を発見するのが法律家である。

 もちろん、どちらを採用しても、結果としてはA地点からB地点までの道ができることには変わりはない。

 しかし、このような違いがでる。

 日本のような「法」を採用している場合、権力者が間違えて、全く必要のない道をつくってしまう場合がある。逆に、必要なところに道がなかったりする。
 そういった場合、「これは不要だし〜ぃ」「ここにも道をつくろ〜よ」(この通りではないが)などと言うのも法律家や法律学者の役割とされている。あるいは、近道を発見するのもそうだろう。

 アメリカのような「法」の国では、A地点からB地点のような人がよく行くところでは問題はないが、まだあまりたくさん人の行っていない、C地点にいきたい場合に苦労する。
 そういった場合、弁護士は、C地点に行きたい依頼人の為に道を作ろうと悪戦苦闘する。C地点に行く道はないけど、Cの近くのD地点に行く道ならあります・・・といった具合である。そのDへ行く道というのが裁判の事例・・・判例である。判例がまとまって、ふみかためられると法になる。その土木工事の方法が、法律的考え方だろう。実際に道・・法になるかは関係ない。勝訴すれば、判例になり、道になる可能性も大きいが、負けてもどうってことない。但し、工事の方法が下手くそで到底道にならないとなれば、ヘボ弁護士に間違いない。

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 最近の法曹養成改革のながれで、日本にも、ロースクールなるものが出来た。司法試験が難しすぎ詰め込み教育でない、法的思考力のある人材をとりたいということのようである。

 この著者も同志社大学ロースクールで教鞭をとっている。

 主として、アメリカのロースクールを意識してっていうかマネしたもののようだ。

上に述べた、日本の「法」を大陸法という。日本は島国なので違和感があるが、もともとはドイツやフランスなどのヨーロッパ大陸の国々から、明治時代に輸入したものだからだ。

 日本のような大陸法系の国が、英米法系のアメリカの教育をマネすることにどれだけ意義があるのか疑問である。

 アメリカのロースクールでは、実際の事件、つまり裁判例から、「法」を発見させる授業をしている。英米法では判例が全てである。判例=「法」と考えてもおおよそは正しい。

 しかし、日本では判例はそれほどの意味は持たない。せいぜい、制定された法に欠陥があるときに補う程度だ。法の解釈の方が重要である。

 上で、ロースクールの授業では結論自体に意味はなく、その思考過程が重要と書いた。

 また別の例えで恐縮だが、日本の算数の問題はこういうのが多い。

  3+4 = □

 この問題では答えは一義的に決まっている。7である。7以外は×をつければいいから、採点も簡単である。

 しかし外国ではこういう問題が出るときく。

  □+□ = 7

 3と4を入れてもいいし、5と2を入れてもいい。しかし、10と3を入れた生徒は足し算の理解に問題があるといえよう。足し算の考え方を理解しているか問うのに良い問題である。

 ロースクールで習うことは、こういった四則計算の考え方を学ぶのにも似る。どういった法律を代入しても、基本的な法の考え方は変らない。だから、答えは一義的には決まらないが、一定の範囲にはある。論理的に飛躍していたりする場合は、×である。

 日本の教育は、○×や、一義的に答えを求める問題ばかり、生徒に多量に解かせてきたという事情がある。ことにある程度偏差値の高い学校に入るためには、それが必要である。それが司法試験を受けたり、ロースクールにはいる年齢のある程度の大人になって、「思考力を」と言われても戸惑うに違いない。

 もちろん、法的思考力は必要であり、おそらく司法試験などでは、法務省もそういった人材をとれる問題を作っているに違いない。事実をより分けて、その中から「法」を発見することは、日本のような大陸法の国でも、よりよい解釈を発見したり、近道をつくる力になるからだ。

 いままでの大学教育では限界があるので、ロースクールをということなのだろう。

 しかし、最初に結論を設定しておいて、生徒をそこに誘導していく・・・ということであれば、緩やかな詰め込みと変らない。ささっと覚えてその時間遊んだほうが幅広い人間を育てられるのではなかろうか。

 ま、どんな制度も運用次第である。日本の「ロースクール」なるものも、議論を戦わせて法的思考能力をつけさせて、結論を強いるようなことをしなければ、よい制度になりうると思う。ホントのロースクールに比べると議論自体難しいけどね。


 長くなった。ここまで読んでくれてありがとう。