キツネの騎士道〜「動物に愛はあるかⅠ」を読みました。

             モーリス・バートン   垂水雄二☆訳 早川書房


 ビルの出入口などの公共の場所で、男性が女性のためにドアを開け、支えてあげるという行動例は、最近日本でも観察される。見た事あるだろうか。あるいは、そういった行動をしているだろうか。(女性の側も軽く礼を述べるのが礼儀である)

 これはいわゆる「レディ・ファースト」の習慣の一つである。他にも、握手をする場合は女性からとか道を歩く時は男性が車道側を歩くとか色々ある。女性が来たり、女性が席を立つ場合(目上の人と同じく)は、一旦席を立つという習慣は本場の欧米でもなくなったようである。

 この本にも書いてあるが、「女性を尊重する」そういった習慣は、身重や子どもづれの女性への習慣が、女性一般に広まったようである。種の存続ということを考えれば、子どもなどの社会的弱者への配慮というのは、本能に組み込まれていると考えられる。

 女性を社会的弱者と呼ぶのは、今日では少しためらわれるが、子どもは間違いなくその通りであるし、女性が妊娠中の場合にも特別な配慮を要求するのは当然と思われる。妊娠中や、小さな子どもを連れた女性に配慮を示すことは今日でもなお要求される礼儀であろう。

 飼われているサルが、オリをつなぐ通り抜け自由なドアを通ろうとする小ザルのために、ドアをおさえてあげる行動は、その一種であろう。
 また、サルの群れでは、雌に対する攻撃も行われている。しかし、子どもを連れた雌ザルに対しては、決して攻撃は行われないそうである。
 
 レディ・ファーストの変形というべきかもしれないが、動物には、雄の動物が雌の動物を尊重する傾向がある。
犬は、雄が雌からひどい攻撃を受けてもやりかえさずに我慢する。筆者の家で飼っていた雄の犬は、雌にエサを奪われるという目にあったが、脅すために吠えただけで、噛み付いたりする実力行使は一切なかった。

 雄の示す寛容性の極致はカマキリであろう。
 雌は交尾が終わった雄をむしゃむしゃ食べることがある。時には交尾中に。それでも雄は雌に攻撃性を示さない。
 これはもちろん生物学的に意味がある。雌は卵を産み子孫を残すのに重要であるが、雄はいくらでも代わりがいるからだ・・ということである。あくまでもカマキリの場合だが。

 だが根本的に雌雄間の騎士道は、遺伝子を残すための非利己的行動の一つである。

 この本の筆者は、ひとつがいのキツネを飼っていた。できるだけ、自然に近い環境を与えた。
 やはり、雌のキツネが雄のキツネを攻撃しても雄のキツネは寛容であった。

 しかし、エサに関してはまったくそうではなく、別々にエサをあげなければ、雌のキツネは間違いなく飢え死にしただろう。

 飼い始めてから2年目、雌のキツネは身重になり、出産準備のため、自分で巣穴を掘った。

 このとき、雄のキツネにエサを与えたところ、雄はいつもと異なり、エサを全部口いっぱいにほおばって(それは難しいことだった)、育児用の巣穴のところまで行き、今まで聞いたことのない低い声で鳴いた。
 雌が出てくると、雄はその前にエサを全部落とした。それからじっとたたずんで、雌が食べ終わるまで待っていた。
 雌のお腹のへこみぐあいからして、出産が終わったことは明らかだった。

 雄のキツネは、出産が終わった瞬間から、子の独り立ちまで、エサに関して利己的であることをやめたが、子が巣立つとまた利己的に戻った。
 このパターンは飼いつづけていた6年の間、変わらなかったという。

 ある年の4月に、雌はまた身重になり、育児用の穴にひきこもった。
 その日の夕方に見回りにでたところ、雄がどこにもみあたらなかった。囲いにしていた丈夫な金網に一ヶ所ひきちぎった穴があいていた。

 さらによく調べてみると、雌が育児用の穴で死んでいるのが見つかった。赤ん坊はまだお腹のなかにおり、雌の鼻づらの先には食器に入れておいたエサがみつかった。

 そして、横たわった雌の体に、雄が一羽のチャボの死骸をきつく押しつけていた。

 それはあたかも、うろたえながらもなにかする必要があることに気付いた雄が、死んでしまったつれあいを助けるために最善をつくしたかのようだった。すなわち、あらんかぎりの力をふりしぼって檻を抜け出し、チャボを引きずって苦労してもどってきたらしかった。

 まさに英雄である。
 動物に愛はあるかって?


 もちろん!



 ではまた。