「大穴」をもう一度読みました。(ネタバレ)

      ディック・フランシス    菊池 光 訳     ハヤカワ・ミステリ文庫


ディック・フランシスは何度読んでも、面白い。巨匠の例にもれず、どの作品を読んでも一定の水準が保たれているからだ。シッド・ハレーの出てくる、初期の作品。

 今回再読して思ったのは、きわめてイギリス的な(日本的でもある)いじめの構造をとりこんでいるからだろう。考えてみると、主人公は、すべていじめに耐え抜く(精神的に)強い男である。

 高名な騎手で、普通はいじめの対象にならない、シッド・ハレーも、良き友人でもある義理の父(もっとも肝心の妻とは別居状態)の策略で、相手の油断を誘うため、無理やり、いじめられっ子になる。

 そして、ディック・フランシスをかなり読んだため、これは間違いない。犯人は、ほとんど、感じの悪い、いじめっ子キャラである。今回のクレイもそうだ。

 シッド・ハレーは、つまらないことで弱音をはかない、アングロ・サクソン的な強さを持っている。そして、感情をあらわさない。きわめてイギリス的だ。日本人もそうだが。

「そうでしたね」私はごく幼少の頃から同情を示されるのを避けた。不要であったし、信用しなかったのだ。同情を受けると人間が甘くなってしまう。不義の子には甘くなっている余裕はないのだ。学校で泣くこともあるし、恥辱から回復できないような打撃をうけることもある。だから、貧困も嘲笑も、あるいは成人してから妻に去られることも、職業を諦めねばならぬことも、肩をすぼめてやりすごし、本心は人に見えない胸のなかにしまっておかなければならないのだ。ばかげているようだが、致し方ない。

 主人公は(おしんをはじめ)いじめられるものと相場が決まっているが、これはすごい。はじめに撃たれたのをはじめ、落馬でひどく傷つけられた手を(もともと使えなかったが)、失うはめになる。

 左手の傷のため騎手生活を引退したシッドは、その傷を気にして、いつもポケットに手をいれていた。身体の傷のため、心にも傷を負うザナ・マーティンとの交流、そして、二人ともが、心の傷を静かに癒し始めるのはすばらしい。

 事件を解決したシッドは探偵として、新たな人生の一歩を踏み出すことを決意する。もう、高名な騎手だった過去を思い返して、感傷にふけるようなことはしない。アパートを爆破されて、思い出の品がなくなってしまったことも
(結果的には)よかった。

 腕がなくなったことをどう思うか聞かれ、答える。

私はつばをのみこんだ。なかには、人に言えない真実もある。しかし、私は言った。「なくなってしまったのだ。私がもっていたほかの多くの物と同じようになくなってしまったんだ。なくったって生きていける」
「生きる、それとも存在するだけ?」
「生きるさ。絶対に生きる。」

 これは、自らに問いかけるのに、いい質問である。

「生きてる?それとも、存在してるだけ?」