名著「炉端のこおろぎ」を再読しました。

                      C・ディケンズ     佐藤香代子訳     東洋文化


 もし、「家庭」の定義を聞かれたら、この本になるでしょう。一番はじめのこおろぎと湯わかしの鳴きくらべから、結婚披露宴にいたるまで、一言一句全てが「家庭」〜Home〜を表現するものです。
 「家庭」とは、単に夫婦や親子などの家族が一緒にいるところではありません。そんなのは単なる『四方の壁と天井』、木や鉄の塊にすぎません。
 夫婦のお互いの愛情や親子の愛情、親子の愛情そのものこそ、「家庭」であり、炉端で陽気に鳴くこおろぎは、その象徴なのです。
  1
 無骨で中年の運送屋と若い愛らしいおちびさんの夫婦は、運送屋の深い愛情、おちびさんのまめまめしい主婦ぶりによって、家庭をつくりあげました。可愛い男の子と、子守(にしてはちょっと不適切な部分はあるにせよ)のティリ嬢も含めて。
 それなのに、根性の曲がった玩具商タクルトンによって、おちびさんの浮気疑惑が植えつけられます。おちびさんのそういった行動には、別の理由があったのですが・・・、はじめ、運送屋はいっそのこと、おちびさんを殺してしまおうかとさえ、思います。しかし、炉端のこおろぎが鳴きだし、おちびさんがどれだけ献身的で忠実な妻だったか、彼女がいるからこそ、運送屋の炉端は温かく、陽気のものになっていたかということを、運送屋ジョンに思い出させるのでした。

「『ここは幸せな家庭だわ、ジョン、だからあたし、こおろぎが大好きなのよ!』」
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「彼女がーそれこそ何度も!ー祝福し、明るくした炉、」とこおろぎがいった。「彼女がいなければ、炉は、単なる数個の石と煉瓦と錆びた渡しがねにすぎないものを、彼女がいるからこそあなたの家庭の祭壇となっていたんですよ。その炉にあなたはつまらぬ激情や、わがままや、心配を生けにえとして供え、平穏な心や、疑いを抱かない性質や、あふれんばかりの情愛の誓いを捧げました。だからこそ、この貧しい家の煙突から出る煙は、この世のどんな豪奢な寺院の中のどんな立派な祭壇の前でたかれる、どんな豊かな香りよりも馥郁(ふくいく)たる香りを放って、たちのぼっていたのです!」

 ジョンは一晩考え、おちびさんを若くして結婚生活に閉じ込めたのは、誤りだったかもしれない。彼女のために、自由にしてあげようと決心します。それほどまでに、彼女を愛しているからに他なりません。
 この愛情こそ、「家庭」でしょう。だから、この家の炉端には、こおろぎがいるのです。

 2
 玩具商タクルトンのために人形を作っているケイレブ・プラマーは、その盲目の娘とタクルトンの屋敷の隣の粗末な家に住んでいました。
 しかし!ケイレブが、母を失い、あわれな盲目の娘のためになしとげたことといったら!実に尊敬に値します。彼は娘を幸福にするため、娘の目が見えないのを利用して、「おとぎの国」をつくりあげたのです。
 『こざっぱりとした感じのいい部屋』(壊れかけたボロ小屋)、ケイレブの着る『新調の明るい青のコート』(実際は粗末な麻布のコート)を娘に話してきかせたのでした。
 根性悪で冷酷な親方タクルトンを、ユーモアあふれる優しい人であるかのように言ってきかせたおかげで、娘がタクルトンに恋ごころを抱いてしまったのが計算外でしたが、それをきっかけにおちびさんに頼み、本当のことを娘に言い聞かせることにしたのでした。
 娘は、おちびさんの言葉を聞いて、感動し、「もう、私はめくらなんかじゃないわ。」と言います。
 親子の深い愛情、だからこそ、ここにもこおろぎがいるのです。

 3
 おちびさんの旧友、メイはタクルトンとの結婚が決まります。メイには、愛情もなく、母親とタクルトンの説得に負けてしまったからです。
 しかし、メイの昔の恋人が意外な形で現れます。(そのために、おちびさんに浮気疑惑が派生してしまいます)

(タクルトンの言葉)「あんた達のいっている陽気な花婿達は、今どこにいるのかね?」
「死んだ人もいます。」とちびさんは言った。「忘れられた人もいますわ。中には、今あたし達の前に現れたとしても、あたし達が以前と同じ人間だなんて、信じない人もいるでしょう。自分達が目と耳で確かめたことなのに、それが本当なんて信じないし、それにあたし達が、自分達のことをそうも簡単に忘れてしまえるなんて、信じない人もいるでしょう。ええ!あの人達には一言だって信じられないでしょう!」

 その恋人は、ケイレブの死んだと思われていた息子でもあり、おちびさんはやっと、すべてをジョンに話して(ジョンを愛していることも)、皆幸せに、メイとケイレブの息子の結婚披露宴をします。
 この新家庭には、間違いなく、こおろぎが鳴き続けることでしょう。