「コン・ティキ号探検記」ヘイエルダール著水口志計夫訳 を読みました。(1)

『ほんのときどきのことではあるが、奇妙な境遇に陥っていることがあるものだ。しだいに、ごく自然に陥っていくのだが、そのまっただなかに来た時に、突然驚いて、一体全体どうしてこんなことになったのか自問自答する。』
  この書き出しがこの冒険記のエッセンスといえよう。書き手は太平洋にイカダで乗り出す。ポリネシアの民族を研究する著者は、南米からポリネシアに白人種の部族(今はもういない)が渡ったにちがいないと考え、それがその当時のイカダで可能であることを根拠づけたいとかんがえている。というか、そのような考えが、突如書き手に舞い込み、書き手は、とりつかれたかのように海への冒険に乗り出す。仲間や後援者、必要な物資を調達する。そして海に乗り出し、しばらくすると、これはいったいどうしたことかといぶかるのだ。
  何かをしたい、どこかへ行きたい、そういう衝動に駆られたときは、それをするべきである。何かすばらしいこと、考えただけでワクワクするような、足がすくみあがって、とてもできないと感じること。私の経験ではそのように感じた事は、全てしなくてはいけない事である。
  この書き手は、太平洋に乗り出し、もう後戻りできなくなってから、「なんだって自分はこんなことをしてるんだろうね?」とゲーテを読む仲間に尋ねる。仲間は、のんびりと「知るもんかい。でもいい考えだと思うよ。」と答える。
  イカダで太平洋を越えられると出発前に考えたものは書き手と仲間以外にいなかったし、イカダを伝承通りのバルサ材を使い、縄でくくったイカダが、無事に航海できると考えた船乗りもいなかった。相談を受けた者は、鉄の鎖を使うようにすすめた。
  しかし、偉大なる酋長であり、ポリネシアの人々にとっては神にも等しい存在・・ティキは鉄など使わなかったのだ。
  そこで、彼の名をつけ、その足跡を追うコン・ティキ号も使わない。
  これが、後ほど彼らの命を救うことになるのである。